三春充希氏のツイートより。
表層で揺らぐ世論があれば、深層から動いている世論もあります。例えば選択的夫婦別姓の賛成の増加は、昭和の頃の家族の標準的なあり方がすでに崩れたという現実に基礎をおく世論なので、増加傾向は固いです。日本会議などがいくら反対してもやがては世論に押し切られるでしょう。
— 三春充希(はる)⭐Mitsuki MIHARU (@miraisyakai) 2021年1月13日
そうなんだよね。この選択的夫婦別姓をめぐる世論の長期的な変化は興味深かった。
私は「表層で揺らぐ世論」にはあまり興味がなく、そんなものに振り回されないことを心がけているつもりだが、それでも実際には私自身も短期的な表層の流れに振り回されているに決まっている。
とはいえもうそれなりに長く生きてきたので*1、長期的な変化に感慨を催すことが多い。
たとえば、2021年といった年数がそうだ。20世紀の80年代くらいまでなら、日本人の大多数は元号で年数を数えていた。江戸時代やそれ以前なら今年を「辛牛」の年と呼んでいたのだろうか。元号が大衆に普及していたとは思えない。
私は1980年代には、いずれ必ず来る「昭和」の終わりに備えて(そもそも天皇制が嫌いなせいもあったが)年数を西暦で数える習慣を意識してつけていたが、当時年数を西暦でばかり言うと、奇異の目で見られて「危険思想」の持ち主みたいに見られることがあった。
ところが、今では極右趣味で鳴らしたネトウヨの前首相・安倍晋三でさえ、日常生活どころか国会でも平気で西暦の年数で答弁するようになっていた。1980年代までの自民党の総理大臣には絶対に考えられなかったことだ。
現在の日本会議につながる人たちが動いて、大平正芳(この人はクリスチャンだった)の政権時代の1979年に「元号法」を制定・施行させたが(そうそう、この一件以降、私は元号に対する反発を強めたのだった)、それにもかかわらず時代の流れは変えられなかった。一昨年、山本太郎が自ら設立した政党に反動的な党名をつけたが、その程度では流れは変わらない。
もっと俗っぽい話題に転じると、プロ野球における読売球団の権威が失墜し、地上波で「読売戦ナイター」が放送されなくなった。プロ野球人気の頂点は実はON全盛期の1960年代後半から1970年代なんかではなくて「昭和」末期の1980年代だった。1983年に読売と西武が日本シリーズを戦った頃など、「キョジンファンにあらずんば人にあらず」みたいな人間が少なからずいたのが不愉快でたまらなかったが、それも今は昔*2。
このように時代は移り変わる。事実上夫の姓が妻に強制される(逆の例はきわめて少ない)夫婦同姓制度や元号、それにテレビに支えられてきた読売軍人気*3などは、廃れるべくして廃れるということだろう。