kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

小山田圭吾が「五輪開会式楽曲担当」辞任に思う、1980年代以降の日本の文化・社会・政治が裁かれる日の到来

 東京五輪の開会式の音楽をめぐる小山田圭吾の旧悪が暴かれた一件については、小山田のいじめ体質が東京五輪開催を強行した菅政権や安倍前政権の体質とよく合っているから東京五輪にはむしろ似つかわしいくらいだと思っていたが、小山田と組織委員会に対する批判が怒濤の勢いにまで強まったため、小山田がついていた五輪開会式楽曲担当の役職を辞任し、小山田が作った音楽は演奏されないことになった。

 これまでにも何度か日記に書いたことがあるが、私は1980年代の日本の文化が当時から大嫌いで、ずっとそれに背を向け続けてきた。その嫡子である1990年代の文化に対しても同様だ。だから小山田も「渋谷系」とやらもその名前すら知らなかった。

 日本の文化において、1980年にほとんど不連続的ともいえる急激な変化が起きたと私は考えている。その象徴がツービートの「赤信号、みんなで渡れば怖くない」であって、私はこのフレーズが死ぬほど嫌いだった。その思いは今でも変わらない。現在、菅義偉の新型コロナ対策といえば、ワクチンの他には飲食店いじめ*1しかないが、飲食店いじめの露骨さとか、あるいは安倍政権時代の公文書の隠蔽、改竄、廃棄など悪行のやりたい放題なども、全部この1980年以来の日本文化の悪しき流れに乗っかったものだといえるのではないか。

 そして、「渋谷系」の人間たち、ことに小山田圭吾や彼を持ち上げた雑誌の編集者たちは、弱者差別を売り物にさえしていたようだ。

 今回の件で、2006年に公開された電八郎氏の「孤立無援のブログ」の下記記事が再発掘され、小山田の極悪非道ぶりが広く知られることになった。

 

koritsumuen.hatenablog.com

 

 上記ブログ記事の冒頭部分を以下に引用する。

 

 ミュージシャンのコーネリアスこと、小山田圭吾ですけど。
 雑誌のインタービューによりますと、彼は、和光大学付属の小・中・高校時代に、いじめる側の生徒だったようです。
「ロッキンオン・ジャパン」(1994年1月号。編集長は山崎洋一郎)の小山田圭吾2万字インタビューによると、

「あとやっぱりうちはいじめがほんとすごかったなあ」
でも、いじめた方だって言ったじゃん。
「うん。いじめてた。けっこう今考えるとほんとすっごいヒドイことしてたわ。この場を借りてお詫びします(笑)だって、けっこうほんとキツイことしてたよ」
やっちゃいけないことを。
「うん。もう人の道に反してること。だってもうほんとに全裸にしてグルグルに紐を巻いてオナニーさしてさ。ウンコを食わしたりさ。ウンコ食わした上にバックドロップしたりさ」

 とのこと。
 このインタビューを読んだ村上清というライターが、その後、雑誌『クイック・ジャパン』vol. 3号(19958月・51-72頁)にて、「村上清のいじめ紀行」という記事を書きます。記事によれば、いじめってエンターテイメントということらしく、

いじめた側の人がその後どんな大人になったか、
いじめられた側の人がその後どうやっていじめを切り抜けて生き残ったのか、

 という興味から、いじめた人と、いじめられた人との対談を企画します。しかしこの対談は実現せず、小山田圭吾への個人インタビューとなります。(後略)

 

出典:https://koritsumuen.hatenablog.com/entry/20061115/p1

 

 上記記事は最初他のブログに掲載され、それがはてなダイアリー(当時)に引っ越したあとの2012年夏に一度発掘されたことがあったようだ。「はてなブックマーク」の人気ブクマの多くはこの時期につけられている。2012年夏といえば、第2次安倍内閣発足の数か月前だ。いくつか紹介する。

 

小山田圭吾における人間の研究 - 孤立無援のブログ

私がこのインタビューをかつて読んで驚いたのはその語り口の上手さ。いじめ自体の問題は別にして一種の芸。2ch的なものの走りであり、94年にはまだそうしたネット匿名の巨大世界はなかったのである。

2012/07/23 17:40

b.hatena.ne.jp

 

 「2ch(現5ch)的なものの走りであ」るとともに、1980年にツービートが発した「赤信号」の嫡子でもあるよなあ。80年代・90年代文化の典型例じゃないかと思う。

 

小山田圭吾における人間の研究 - 孤立無援のブログ

小山田がクズなのは全くその通りだがこの露悪と当時の音楽性はそのまま繋がってて裏切るものでもない。 90年代渋谷系の本質の一つは悪童達の露悪だったから。

2012/08/08 12:49

b.hatena.ne.jp

 

 「悪童たちの露悪」というのもビートたけしと同じだ。たけしがテレビ朝日の「TVタックル」などで自民党の御用芸人というか電波芸者的な役割を長年果たしてきたことも忘れてはならないだろう。

 

小山田圭吾における人間の研究 - 孤立無援のブログ

スクールカーストの上位にいる人間にとって、「いじめ」とは本当に娯楽・よい思い出なんだろうね。うんざり

2012/07/23 22:29

b.hatena.ne.jp

 

 階級の上位にある者が下位にある者をいじめることをよしとする、というのが1980年から40年間続いた日本社会の基本的なコンセプトだったのではないか。文化にも自民党政権の政治にも通底するその流れが(おそらくはコロナ禍を機に)今まさに問われようとしている。もしかしたらわれわれは今、数十年の一度の大きな転換期にいるのかもしれない。

 

小山田圭吾における人間の研究 - 孤立無援のブログ

小山田圭吾も無防備すぎるし、ヤな奴だとは思うけど、インタビュアーの品性が記事にはいちばん反映されるんだよね。で、おどろきはないよ。ロックやサブカルなんてこの程度なんですよ。そんだけの話。

2012/07/24 12:52

b.hatena.ne.jp

 

 「ロックやサブカルなんてこの程度」というのは、その前に「1980年代以降の日本における」という限定が必要なんじゃないか。例えば、私がロック雑誌の論客として直ちにその名を思い浮かべる故中村とうよう(2011年没)は、小山田や村上清とは対極にあるような(その実根っこは同じなのかもしれないが)教条的な左翼だったのだから。

 ところで昨日、本件からまず反ユダヤ主義者にして没後ナチスドイツに利用されまくったリヒャルト・ワーグナーを思い出した。彼の音楽は世界中の多くの人に愛好されているが、イスラエル・フィルがワーグナーを演奏するまでには何十年もの歳月を必要とした。

 また、そういえば殺人を犯した作曲家や画家がいたはずだよなあと思ってネット検索をかけ、作曲家カルロ・ジェズアルド(1566-1613)や画家ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571-1610)について書かれた記事を読んでいた。小山田圭吾は殺人こそ犯していないが、ジェズアルドやカラヴァッジョを連想させる人間であることは間違いないだろう。なぜなら、小山田のいじめを苦にして自殺に追い込まれる人が出た可能性だってあるのだから。

 もっともワーグナーはもちろんジェズアルドの音楽やカラヴァッジョの絵は現在でも評価されているが、小山田の「音楽」が後世に残るかどうかは知らない。そもそも私は彼の「音楽」など全く知らないのだから評価のしようがない。

 ただ、1980年代から90年代にかけての日本の文化、ひいては当時から現在に至る日本社会や自民党政権による政治のあり方が裁かれる日々がついに始まりつつあるのだなあと、そのことに対して深い感慨を覚える次第。

*1:菅義偉西村康稔の個人的暴走にしようと躍起になっているが、18日の「サンデーモーニング」で政府関係者のコメントとして指摘されていた通り、この件に菅が関与していないとは考えられない。