下記記事にコメントをいただいた。
ヒトシ
それは十分承知しています。
日本の新自由主義は何も、小泉純一郎と竹中平蔵が今世紀に入ってから始めたものではありません。1970年代にはその萌芽は十分見られましたし、日本に先駆けてイギリスで1979年にサッチャーが、アメリカで1980年にレーガンが相次いで最高指導者になったことで、新自由主義への流れは確かなものになりました。「保守本流」(宏池会)の大平正芳が総理大臣として「小さな政府」を標榜したのはサッチャーが首相になった1979年で、大平は世界の潮流をよく知っていたわけです。大平よりもっと露骨だったのは1982年に総理大臣になった中曽根康弘ですが、中曽根の場合はネオリベの経済思想よりもサッチャーやレーガンのネオコンを真似たものかもしれませんが、経済政策でも「民活」(民間活力の活用)や規制緩和が合言葉とされました。
1989年の海部俊樹内閣成立時に自民党幹事長になった小沢一郎は、旧田中派にありながら、同派には珍しく強烈にネオコン・ネオリベ路線を志向する政治家でした。彼が推進した1990年代の政治改革が衆院選の小選挙区制導入により各政党の執行部独裁化を招いたことは非常に罪深いですが、小沢の「著書」とされる『日本改造計画』のゴーストライターの一人が竹中平蔵だったとも言われています。その小沢の剛腕で1993年に成立した「非自民」の細川護煕内閣は、自民党政権と比較しても新自由主義志向の強い政権でした。翌1994年に成立した自社さの村山富市内閣も、こういった強いネオリベ化を押しとどめることはできませんでした。
2001年に小泉内閣が成立した時には、社民党までもが「コイズミカイカク」を支持していましたから、小泉政権は1970年代以来ずっと強まってきた新自由主義の流れに本格的に乗ったに過ぎなかったわけです。5年続いた小泉政権の末期になって、ようやく新自由主義への反発が「右」からも「左」からも強まりましたが、昨年の衆院選でも維新の松井一郎が「まだカイカクが足りない」などとほざいているのを聞き、「なんだ、まだそんなことを言っているのか」と呆れたものです。しかし、選挙結果はその維新を大きく押し上げるものでした。そこで弊ブログは「維新主要打撃論」を標榜することにしましたが、維新を倒すよりも野党陣営内を攪乱してのし上がろうとする某小政党が、折しも起きたウクライナ戦争で安倍晋三や橋下徹を思わせるロシア寄りのスタンスを取り、弊ブログにいただいたコメントの表現を借りれば同党が「劣化版維新」に過ぎないことを露呈したので、ここ数か月は同党に対する批判を強めている次第です。同党のさる構成員(陰謀論者ですが)の告発によると、同党内の統治に働く原理は「自己責任」であり、党内は極めて新自由主義的だとのことです。
昨年成立した岸田文雄内閣が「小泉政権以来の新自由主義的政策を見直す」と言い出したことなどから、あたかも日本のネオリベのルーツが小泉であるかのような理解が流布しているかと思いますが、それは大きな誤りです。
そ岸田の言う「新しい資本主義」が新自由主義の脱却を目指すどころか「貯蓄から投資へ」などという新自由主義そのものの路線にあっという間に固まってしまったことは、新自由主義を志向する惰性力がいかに強いかを物語るものです。あれだって、最初は金融所得課税の税率引き上げを目指していたはずでしたが、それは早々に潰され、岸田は何の抵抗もできませんでした。国の最高指導者といえどもその程度だということです。
1995年の政策はその数年前には下地が作られていましたし、それはさらに国内では1970年代、世界的には1960年代にミルトン・フリードマンが暗躍した時代に遡れます。第一、「新時代の日本的経営」は時の政権ではなく日経連が発表したものであることを見落としてはならないでしょう。
初めてコメントします。
1995年は自民社会さきがけ連立の村山富市内閣の二年目で、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起きた年だったのではないでしょうか。小泉内閣は2001年からですよ。
1995年も2001年も、ヤクルトが日本一になったのは同じですが。