宮武嶺さんは護憲派とのことだが、私は9条や25条は守るべきだと思うものの天皇制は廃止すべきだと考えているので、護憲派の人間ではない。
私が天皇制に対するスタンスを4年前までの微温的な「必要悪」から「不要であり廃止すべき」に改めたのは、これまでにも何度か書いたと思うが原武史の大著『皇后考』を読んだのがきっかけだ。読書記録を参照すると2019年3月25日、「平成*1」が終わる1か月あまり前だった。
この本を読んで、私の天皇制観はそれまでの「必要悪」から「絶対悪」へと変わった。天皇制が社会に与える害悪も問題だが、皇室内においては特に女性皇族を抑圧する非人間的なシステムが今も機能していると思われる。本に描かれた貞明皇后は「産む機械」として皇室に迎え入れられたが、自らの実力をもって昭和天皇でさえ頭が上がらない大権力者となった。その生涯は壮絶の一語に尽きる。しかしそれは貞明皇后のような傑物にして初めてできたことであって、常人には簡単に耐えられる仕組みではない。現に現皇后も未だに苦しんでいると思われる。
極悪新自由主義者のイーロン・マスクのせいで、最近はXにほとんどアクセスできなくなったが、醍醐聰氏の名前でGoogle検索をかけたら、秋篠宮家の佳子氏に関する連続ポスト4件のうち2件目以降が表示された。これがGoogle検索の結果に表示された時にはXアカウント未開設者にもアクセスできるので以下にリンクする。
(2/4)
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) 2023年8月21日
「佳子さまからの警告」は、眞子さんに続き、佳子さんが華やかな表舞台の裏で、女性宮家創設の行方に戦々恐々としているメンタルを行き届いた取材をもとに明かしている。https://t.co/GvdG4QxfdK
呉越同舟で女性宮家の創設を語り合う与野党の人権感覚の軽さを改めて実感せられた記事だった。
(3/4)
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) 2023年8月21日
秋篠宮家の改修、仮寓所の建設に計40億円の国費が充てられた皇族の特恵的地位に目を向けるのが先決には違いない。しかし、「皇族にも一人の人間としての人生がある」「赤坂御用地や御所など、高い塀に囲まれた空間で幽閉されているのと同じ」という宮内庁幹部の感想を聞き流すことはできない。
(4/4)
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) 2023年8月21日
天皇制と命がけで闘った党史を誇る共産党でさえ、女性宮家の創設に呉越同舟する今日、天皇制打倒は死語になった。しかし、女性皇族の皇室脱出が相次ぎ、男性皇族も結婚相手を得るのに行き詰るとなれば、それは天皇制が内からの人権問題に抗えず、安楽死に向かう道程を意味するように思える。
上記醍醐氏のXの連続ポストは『文藝春秋』の最新9月号掲載の記事に基づいているようだが、秋篠宮家の佳子氏は「華やかな表舞台の裏で、女性宮家創設の行方に戦々恐々としているメンタル」の問題を抱えており、宮内庁の幹部までもが「皇族にも一人の人間としての人生がある」「赤坂御用地や御所など、高い塀に囲まれた空間で幽閉されているのと同じ」との感想を漏らしているという。「天皇制が内からの人権問題に抗えず、安楽死に向かう道程」とはうまい表現だと思う。結局天皇制はイデオロギーによってではなく、自ら崩壊していくのだろう。残念ながら私の目の黒いうちに天皇制が終わることはほとんど期待できないが、その日は必ず来る。その時、皇族たちも解放されるのだろう。もちろん日本国憲法も改定されないわけにはいかない。
「解放」といえば、昨日公開した下記記事にsuterakusoさんからコメントをいただいたので以下に紹介する。
実は昨日の記事の「自分自身を解放する必要がある」との表現は、安倍晋三について書かれたsuterakusoさんのコメントを下敷きにしたものでした。
カズオ・イシグロの『日の名残り』は、古いイギリスの階級制度において貴族の執事として空威張りしていた上、自殺に追い込まれたかつての雇い主が犯して自らも加担した戦争犯罪(ナチス・ドイツへの協力)も直視できずにいた傲慢不遜な執事が、休暇が得られた時に未だに忘れられないかつての想い人に再会してようやく自らが犯した誤りを直視せざるを得なくなり、痛恨の号泣をするという激しい感情の動きが描かれた小説です。読書案内のサイトにミスリードされた読者たちが思い込まされているような静謐な物語では間違ってもありません。ハヤカワ文庫には丸谷才一のすぐれた解説も載っているはずなのに、なぜ読書サイトの感想文が現在見られるような「誤読の殿堂」になっているかは私にはさっぱり理解できないのですが、残念ながらこれが今の「病める日本社会」をよく表しているのだと思います。私は宮部みゆきの『小暮写眞館』を読んで『日の名残り』を思い出したのですが、両作にはラストで主人公(たち)が自らを解放するという共通点があるのでした。しかし、イシグロ作品は、執事がようやく自分を解放した時には人生は少ししか残されていなかったというあまりにも苦いエンディングであるのに対し、宮部作品の主人公たちは(おそらく)17歳と24歳という若い時期に自らを解放した点で『日の名残り』とは対照的に希望のあるエンディングになったのでした。宮部作品に出てくる不動産屋の主人はおそらく作者の宮部みゆきの代弁者でしょうが、某東野圭吾の『手紙』に出てきて「差別はね、当然なんだよ」と語る家電量販店社長が東野の代弁者と見られることと好対照をなしているとも思いました。要するに東野は「差別する側、抑圧する側」の人間だということです。この東野が今の日本でもっとも人気のあるミステリ作家だということも、前述の『日の名残り』の誤読が主流になっていることと合わせて、前述の「病める日本社会」を象徴しています。
小説の話はここまでにして平井卓也の件について。下記朝日新聞デジタルの有料記事は読みました。引用はできないのですが、朝日新聞記者のインタビューに対して平井卓也は実にそっけないコメントをしています。
中国新聞の2012年の下記記事は無料ですね。
私が目を剥いたのは下記のくだりでした。
高松市に住む友人に連絡すると、伝記「にんげん平井太郎 偉大なるその生涯」(79年刊)が送られてきた。
「昭和十七年頃(ごろ)、朝鮮の富平で造兵工廠(こうしょう)建設の仕事を入札。現地の人を何千人も使い…」。この会社に違いないと思った。昨年5月、朴さんに初めて連絡を取った。
何が『にんげん平井太郎 偉大なるその生涯』だよ、と頭に血が登った次第です。
このくだりから直ちに思い出したのは、2009年夏(7月16日)に平井卓也の父・卓志が死んだ時、平井一族が所有しているメディアの一つである西日本放送がテレビで平井卓志の追悼番組を垂れ流しやがったことです。電波の私物化もこれに極まれり。とんでもないことだと私は激怒しました。当時は毎週土曜日朝に辛坊治郎が司会する番組を監視するなどして闘志を掻き立てていた頃だったので、この番組もわざわざ見て、翌月に迫った衆院選で平井卓也を落選させてやるぞと思ったものですが、小川淳也の力不足が災いして平井に比例復活を許してしまいました。
結局日本国民は安倍晋三が自らを解放するどころか、安倍が勘違いしたままのつけあがらせを許した結果、悲惨な銃撃死を呼びこんでしまいました。麻生太郎はもちろん、平井卓也を解放してやることもできそうにもありませんね。
>"この国の多くの人には、まず自分自身を解放する必要があると思うとともに、こんな調子だとこの国が大きく変わる日など本当に来るのだろうかと絶望的にならずにはいられない" 故人はまさにそんな奴隷の王だった…。
とブコメに書きましたが、同じく、自分自身を解放できない哀れな3代目の奴隷の領主である平井卓也の記事を見つけたのでお知らせします。
「華麗なる一族」ルーツに被爆徴用工 築いた富、3代続く議員の礎に
武田肇2023年8月22日 7時30分
https://www.asahi.com/articles/ASR8M7GH3R8JPTLC00R.html
残念ながらこの記事は有料記事で、前振り以外は全く読むことができません。(有料会員のkojitakenさんは読むことができると思われますが…。)それで、後に書いてあるであろうことであろうと思われることが、どこか他の所に書いてないか探してみました。すると、2011年(あるいは12年、11年のものを再掲かもしれません)とかなり古いですが、次の記事を見つけました。
中国新聞 ヒロシマ平和メディアセンター
在韓被爆者 66年後の手帳取得 河井章子 写真が伝える徴用の実態
12年4月22日
https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=18026
この記事、なぜかコピペできないのですが、書き写します。
>■日本語教師 河井章子
日本語教師。1956年広島市生まれ。87~90年ソウルの延生大に留学。手帳取得など在韓被爆者の支援活動を続ける。千葉県流山市在住。
韓国全羅南道(チョルラナムド)に住む朴洪圭(パクホンギュ)さん(83)は1945年8月6日、広島で被爆した。「玉藻(たまも)組」に徴用され、広島駅北側の軍人配給倉庫近くで防空壕(ごう)を掘っていた作業員の一人だった。しかし、承認が見つからず被爆者健康手帳を持っていなかった。そのことを「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の会報で4年前に知った。 「玉藻組」とは? 広島生まれの私も初めて接する社名だった。電話番号案内にも旧広島市街地図にも出ていない。平和記念公園にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は、被爆者の手記や記録がそろえられ、検索もできると聞いた。広島に戻った際に訪れ、「玉藻組」と入力すると日本人遺族の手記が現れた。
「玉藻組」は実在
「大手町の玉藻組広島支社で焼けていた父を収容した」とある。やはり「玉藻組」は実在していた。だが、それだけでは手帳を申請できない。その後、「玉藻組」創業者の名前をインターネットで見つけた。
「高松市で土建業、玉藻組を興し」、戦後は西日本放送会長、参議院副議長を務めた平井太郎だった。これが、朴さんを徴用した「玉藻組」なのか、半信半疑だった。高松市に住む友人に連絡すると、伝記「にんげん平井太郎 偉大なるその生涯」(79年刊)が送られてきた。
「昭和十七年頃(ごろ)、朝鮮の冨平で造兵工廠(こうしょう)建設の仕事を入札。現地の人を何千人も使い…」。この会社に違いないと思った。昨年5月、朴さんに初めて連絡を取った。
朴さんは脳卒中の後遺症で歩けないが、「玉藻組のことが分かるなら申請を頼みます」と答えた。韓国原爆被害者協会ほ湖南(ほなむ)支部の柳益善(ユーイクソン)支部長は、朴さんを何度も訪ねて詳しい話を聞き取ってくれた。
「一人息子なので兵隊に取られぬよう早く結婚したが、1944年、徴用に取られてしまった」「釜山から下関を経て四国で下船。60人は広島、60人は九州と決められた」「広島に着いて初めは飛行場、次に広島駅北側の山で防空壕を掘った。夜勤明けで寝ていた時、原爆に遭った」
証人と同じ効力
高齢とは思えぬ記憶力に、徴用された当時の写真を持っていた。朴さんの若い面差しに胸をつかれた。一方、腕章に写る「玉藻組」の文字に心が躍った。写真は手帳申請に当たり、承認と同等の効力を持つのだ。
長く手掛かりがなかったのが、いろいろな力に後押しされて前進した。猛暑が続いた昨年7月、朴さんは娘さん夫婦に抱えられ全羅南道の村から高速道を東へ約4時間かけ、釜山の日本総領事館で手帳申請を果たした。
さらに今年1月、戦時中の土建会社の受注工事一覧が見つかった。玉藻組の工事発注者は「広島師団経理部」だった。現場は香川、福岡、熊本県に及んでいた。そして2月、朴さんは、ついに被爆者の証である手帳を取得したのである。
しかし、朴さんが広島から遺骨で持ち帰った6人が被爆者に数えられることはない。朝鮮半島の多くの若者に労働を強いながら、彼らを放置して解散した「玉藻組」。被爆者、朴洪圭が証明した事実である。
(2011年4月22日朝刊掲載)<
最後の一段落につきると思います。私たちは自分たちを解放するためにも、過去と向き合わなければならないのにですね。とくに安倍や平井や(やはり麻生を加えるべきでしょうね)のように呪われた生まれの哀れな者こそ。
(書き終えた後に、なぜかコピペができるようになりました。まあ、熟読できてよかったと思います。写し間違いがありましたらすみません。)