kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

アマチュアとプロフェッショナルの違い、それにプロフェッショナルの劣化 〜 民主党代表選に思う

今回の民主党代表選をめぐる「政治ブログ」の議論を見ていて改めて思うのは、アマチュアとプロフェッショナルの違いとして、一般に流布しているイメージとは逆に、アマチュアの方が権威に弱く型にはまった考え方をする傾向が強いということだ。良きにつけ悪しきにつけ、プロフェッショナルの方が人の意表を突く発想ができる。悪い例では、コイズミの郵政選挙における「刺客作戦」が挙げられる。あの時、国民が熱狂的にコイズミを支持したのは、別に郵政民営化に賛成したのではなく、「刺客作戦」に闘牛かプロレス中継を見るように熱狂したのである。プロレスは多くの場合八百長だが、「刺客」と「抵抗勢力」の闘いはガチンコだった。同じように、人の予期しないことをやる「悪例」の政治家としては、橋下徹が挙げられる。

今回、民主党支持者のブログを見ていても、なぜか過去の職歴だとか、小沢一郎の流れを汲んでいるかで代表の適不適を論じる人ばかりだ。マスコミを批判する人は多いが、よく見てみると、その大部分はマスコミの主張の裏返しを述べているに過ぎない。特に、これまで久しく政権交代のなかった野党を支持しているにもかかわらず、政治家の職歴を気にする態度は、私には理解不能であって、政権交代のなかった政界で、野党にいたら大臣経験その他などほとんどあったはずがない。せいぜい1993年から94年の非自民連立政権か、94年から96年の自社さ政権、あるいは1993年の自民党分裂前の自民党時代くらいにしか役職経験など求められない。そんな世界で職歴を気にしていては、いつまで経っても後進の台頭は阻まれ続ける。

いわく、長妻昭馬淵澄夫平岡秀夫らでは経験不足なのだそうだが、長妻や馬淵は今年で数えの50歳、平岡に至っては既に50代半ば(安倍晋三と同い年)である。20代、30代が中心だった幕末の志士たちはおろか、織田信長だってもう死んでしまっている年齢である。

今が平時ならともかく、「100年に一度」とも言われる危機の時代だ。そんな時に、平時に経験した職歴など何の役にも立たないだろう。それよりは大胆な発想の転換が求められる。私などより下の世代に当たる1970年代生まれの30代の人たちが中心になって活躍するくらいでなければ党の活力も社会の活力も生まれない。

パソコンのヘビーユーザーは30代より40代、50代のほうが多く、政治ブログの主力もそのあたりの年齢層にあるが、この年齢層は、いまだにテレビコマーシャルに70年代や80年代のヒット曲を使いたがることからもわかるように、保守的で年長者に弱い傾向がある。プロ野球だって、かつては選手としての実績はなくとも指導者の適性があると見られた西本幸雄(大毎−阪急−近鉄)や上田利治(阪急−オリックス日本ハム)は30代で指導者として登用された。単に彼らに資質があっただけではなく、組織に彼らを引き上げる人たちがおり、指導者の適性がある者を抜擢することが当たり前だった。しかし、長嶋茂雄が監督になった頃から、名選手でなければ監督になれない風潮が生じ、それがのちのプロ野球の衰退につながった。

いや、芸能・スポーツの世界だけではない。かつての自民党を見るが良い。三角大福中(三木武夫田中角栄大平正芳福田赳夫中曽根康弘)は皆若い頃から実力をつけて役職につき、能力を発揮した。それは、彼らが苦しい戦争の時代を経験したせいもあるだろう。それが、今では世襲政治家でなければ総理総裁になれない時代になった。若手の台頭はなく、世襲政治家たちが新陳代謝を阻んでいる格好だ。

今回の民主党代表選で一番いけないと思うのは、過去に代表を務めたことのある鳩山由紀夫岡田克也しか立候補していないことだ。過去に遡っても、特に2003年の民由合併以降、新人が手を挙げることがきわめて少ない政党になってしまっている。昨年、小沢一郎が無投票で三選されたのは、特に良くなかった。今回の代表選は民主党にとっては大チャンスだったのだが、またしても小沢一郎自身によってチャンスが潰された。

思えば、小沢一郎海部俊樹を担いだ1989年の自民党総裁選の方がまだマシだった。当時は、小沢一郎自身も若かった(47歳)し、あの当時既に58歳だった海部俊樹が「私には若さがあります」と言ったことには、大いに違和感を覚えたとはいえ、海部が総理・総裁になったのは曲がりなりにも新進の台頭だった。何より海部は世襲議員ではなかった。

あの頃を思うと、野党支持者の考え方までもが大きく保守化してしまった現状が信じられない。そんなことで日本の政治を良くすることができるのか。暗澹たる気持ちに駆られながら、民主党代表選のテレビ中継をいま見ている。