kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

城内実さんと思想信条が正反対の私は表現を考え直すべきかなあ?

いや、私が城内実さんを「極右」と決めつける理由はこれまでに何度も書いてるんですよ。安倍晋三元首相や平沼赳夫経産相ら、そうそうたる「真正保守」の国会議員さんたちが「教育基本法」の改正に骨を折ったわけですが、城内実さん(浪人時代の発言なので肩書きはなし)は、教育勅語があるのだから、教育基本法改正のために国会論戦や有識者の意見を聞くことは税金の無駄遣いだ、などと発言したんです。

以下、「チャンネル桜」における城内さんの発言を文字に起こしてくれた右派ブログの記事 http://hepoko.blog23.fc2.com/blog-entry-207.html から引用します。

城内 私は最近教育勅語を見直すべきじゃないかと思うんです。読めば読むほど、人間として、日本人としての徳が書いてあるわけです。
私は、教育基本法がああだこうだという議論をするのであれば、教育勅語と言うのが既にあるわけですから、国会を開いて議論をしたり、有識者の意見を求めるというのも、税金の無駄遣いなんですね。

なんと、安倍氏や平沼氏の骨折りを「右から揶揄している」とも読める文章です。現在の日本の国会議員の中でも、もっとも「右」に位置する政治家だと私が城内さんを認識するゆえんです。従って、私は城内さんを「極右」とカテゴライズしています。

城内さんはこんなことも語っています。

従って、教育基本法に限らず、憲法に限らず、それぞれを改正、改憲するというのには、私は賛成ではないんです。要するにGHQがいた占領時代に作られたものは全て廃棄すると。全部新しく作りなおすと。これが正しい道だと思います。

ま、こちらの「改憲じゃだめだ、自主憲法制定でなければならない」というのは、平沼赳夫経産相と同じ考え方ですね。少なくとも「護憲派」が受け入れられる考え方はないでしょう。

こうした問題で城内さんと私はイデオロギー的に正反対なので、私が城内さんを批判する時には「極右」という言葉が入ってしまうわけですが、これを「差別」だというのなら、「護憲派」と言う言葉も差別になるわけです。実際そういう言葉の使い方をする人も、特に共産党やその支持者を批判する民主党支持者あたりにかなり見られますけど。

ただ、あまり「極右」という言葉を濫用すると、城内さんのレイシズムむき出しの文章の問題点を、「右も左もない」城内さんの支援者によって、「イデオロギー対立の不毛さ」にすり替えられてしまいますから、表現を考え直すべきなのかもしれません。

事実、イデオロギー城内実さんとほとんど変わらないという『凪論』のブログ主も城内実さんを厳しく批判しているわけですから‥‥

http://blog.livedoor.jp/patriotism_japan/archives/51562266.html

 また、国籍法問題についての自らの発言を批判されたことに対し、掲示板荒らしですら行わないような煽りを自らの公式ブログで行ったこともあわせて考えると、城内議員は自らを客観的に見つめることができない人物であると考えるのが自然であろう。自らを客観視できないからこそ衆議院議員となった自らの言動が周囲にどれだけ影響を与えるかということに無自覚となり、それが眞鍋さんとのトラブルに対する対応と人気ブログランキングに対して「疑問」を述べるという行為に結びついているのであろう。自らに与えられた権力に無自覚な者はその権力を与えられるべき資格がない。城内議員は

「多少イデオロギーが異なっていても世のため人のため正義のため、この国を愛し、世界人類の平和を願うわれわれと一緒に運動しませんか?」

と述べるが、私の思想と城内議員の思想はほとんど変わらない。私は城内議員という人間が信用できないのであり、同じような思想を持つ者がすべて城内議員のような人物であると受け取られるおそれがあるからこそ城内議員を批判しているのである。もはや城内議員には何も期待していないが、城内議員は同じような思想を持つ者からこのような厳しい批判を受けているのはなぜかを真剣に考えた方がよいと思う。

(『凪論』 2009年9月11日付エントリ 「自らの権力を自覚していない城内実衆議院議員に国会議員の資質なし」より)

城内さんと思想がほとんど同じという方からの城内さん批判だけあって、論点が絞れていて感心します。