http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100113-OYT1T00055.htm
憲法改正、自民が「第2次草案」策定へ
自民党は2005年にまとめた「新憲法草案」を見直し、第2次草案の策定に入る方針を固めた。
新憲法草案は立党50年記念党大会に合わせ、条文形式で発表した憲法案。前文を含め、現行憲法を全面改正する内容で、与野党を通じ初の試みだった。
自民党は09年12月、谷垣総裁の指示で憲法改正推進本部(本部長=保利耕輔・前政調会長)を新設し、新憲法草案の再検討に着手。谷垣氏らは、憲法改正手続きを定めた国民投票法が10年5月に施行されることを踏まえ、改憲機運を高めるには、党の憲法案をさらに磨き上げて世に問い直すことが必要だと判断した。
2次草案の取りまとめは年内を目標とし、春ごろまでに新憲法草案を各章ごとに点検し、論点整理に入りたい考えだ。執行部は「民主党は社民党との連立で改憲への取り組みが後退しており、参院選に向けて違いが打ち出しやすくなる」としている。
主要課題としては地方自治、安全保障、二院制のあり方などを想定。地方自治では「分権推進の状況を踏まえ、さらに国の役割を具体的に規定することが必要だ」との意見が出ている。安保分野では集団的自衛権の行使容認の明文化が、二院制では衆参の機能分担や法案審議のルール見直しが論点になると見られている。
(2010年1月13日03時04分 読売新聞)
こんな記事を読んでいると、ますます自民党が「岸信介の政党」と化してきたなあと思う。
1960年に岸内閣が打倒されたあと、2000年までの40年間、岸一派が政権を握ったのはわずかに1976〜78年の福田赳夫内閣だけだった。中曽根康弘内閣や細川護煕内閣の時代もあったとはいえ、概ね40年間「保守本流」の時代が続いた。その歪みは早いうちから現れていたとはいえ、戦後日本が経済的に成功したのは、岸が退いて池田勇人政権が発足した影響が大きかった。つまり、イデオロギーより経済を重視した路線で自民党政治は持っていたのだ。
それが、2000年に小渕恵三が倒れた時に密室で森喜朗を首相にしてしまった時から日本の悪い流れが始まった。この時最終的に小渕にダメージを与えたのが小沢一郎であり、密室で森政権を発足させた戦犯の一人が亀井静香であるのは何とも皮肉だ。あの時、密室政治を行った人たちが何より恐れていたのは加藤紘一政権だったといわれている。その加藤は、同年暮の「加藤の乱」で自滅した。世紀が変わった翌年、小泉純一郎内閣が発足すると、日本は奈落の底へと墜ちていくことになる。中でも最悪の時代は、安倍晋三が総理大臣を務めた2006〜07年だった。しかし、2007年の参院選で、「改憲」を争点にしようと意気込んでいた安倍の目論見は外れ、「消えた年金」が争点となり、『サンプロ』で放送された大村秀章と長妻昭の論戦で、大村が長妻に何も反論できない赤恥をかかされ惨敗して目を潤ませる醜態が全国放送される*1などして、自民党は歴史的大敗を喫し、政治の流れは変わった。
ところが3年後の今なお、自民党は参院選の争点に「改憲」を据えようというのだ。もはや、「政治とカネ」の問題もろとも、「保守本流」は民主党の方に行ってしまったかのようだ。いや、「政治とカネ」の問題だって、戦後政治における金権政治の創始者が岸信介であるといわれていることからも明らかなように、清和会の流れだってうす汚れているのである。だが、どういう人脈の関係からか、これまで彼らの悪事はほとんど摘発されてこなかった。ロッキード事件で田中角栄が逮捕されたのがアメリカの陰謀であるという俗説はつまらない「陰謀論」であり、あれはあくまで日本の政治が反映された捜査だったと私は考えているが、岸信介には田中どころではない数々の疑惑がありながら、ついに尻尾をつかませずに逃げ切ったのである。
真に日本を悪くするのは、昔も今も岸信介一派であり、現在その象徴的存在であるのはいうまでもなく岸信介の孫、安倍晋三である。
自民党はもはや安倍晋三の政党になってしまったかの錯覚が起きる今日この頃だが、正しくは「岸信介の政党」になってしまったというべきだろう。「昭和の妖怪」の政党。そんなものには、やはり消滅してもらうしかない。