kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

タレント候補と世襲候補は同じ方向性を持つと思うが

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100523/1274543146 経由で、毎日新聞に掲載された野坂昭如の文章を知る。

野坂昭如が『週刊朝日』に書いていたエッセイを私が70年代末頃から読んでいたことは、沢田研二の「サムライ」を野坂が批判した文章に言及した時にも書いた*1。野坂は病(脳梗塞)を得て、テレビ出演も週刊誌のエッセイも止めてしまったと思っていたから、野坂の新しい文章に触れるのは久しぶりだ*2

しかし、内容はあまり共感できるものではない。「タレント候補」というタイトルの文章で、野坂は「タレント議員の何が悪い」という趣旨の文章を書いているが、かつて文士として政治にいろいろ口出ししていた自分自身を思い出したのではないか。

とりわけ、下記の部分には首を傾げたくなる。

昔はもっと自由に誰でも立候補できた。政治を志すのにそんなにお金がかからなかったのだ。今は供託金の設定が高い。つまり大きな組織に入らなければ立候補できない仕組み。供託金を高くしてあるのは、泡沫候補の乱立や売名行為を防ぎ、自由でのびやかな選挙を行うためだとされている。実際はどうか。以前から問題視されている2世3世の世襲議員。あるいは別の大きな後ろ盾がある候補者ならいいのか。どちらがと比べるものではないが、どんな人でも立候補して自分の真剣な想いを主張する権利はあるはず。

戦前はお上に都合のいい翼賛選挙が当たり前だった。この点でいえば、泡沫候補やタレント候補の出馬し得る世の中は正常ともいえる。あとは世間が判断すればいい。


どうも野坂はタレント候補と世襲議員を対比させているようだが、私の感覚では、世襲議員とタレント候補とは同じ方向性を持っている。タレント候補がスポーツや芸能の分野における名声を利用するのに対し、世襲候補は父や祖父の政治における名声を利用しているだけだからだ。「金持ちでなければ政治家になれない」点に関しても、タレント候補は世襲候補と同様金持ちである。ただ、自らのスポーツや芸能における才能や、芸能界においてはコネクションの力で、(芸能プロダクションの助けは別として)自らの力で金持ちになった点だけが世襲政治家とは異なるだけだ。

タレント議員を出しておけば票を稼げるというのと、世襲議員を出しておけば当選できると考える発想も同じだ。要するに、「鳩山一郎先生のお孫さん」や「岸信介センセイのお孫さん」を楽々当選させたのも、小泉郵政選挙に熱狂してタイゾーまで当選させたのも、再来月の参院選谷亮子中畑清堀内恒夫に投票する人たちと同じ「B層」の人々なのであって、「B層」は、竹中平蔵の計算通り本当に小泉自民党を圧勝させたからこそ「B層」と呼ばれ、侮蔑されるのである。あの郵政総選挙の前に、共産党が「B層」の記述を含む資料を、竹中平蔵と関係を持つ「スリード社」が作成したことを国会で追及したし、『サンデー毎日』も週刊誌で書き立てた。人々がこれに怒って、参院選自民党を敗北させたなら、「B層作戦」を考えた支配層の悪巧みを人々は許さなかったという教訓になるはずだったが、現実には支配層に見下され扇動される「B層」が実在することを証明するだけに終わった。

野坂昭如は、そんな支配者たちの「B層作戦」を、正当化とは言わぬまでも黙認しているように思える。確かにかつては金持ちでなくてももっと自由に立候補できたのだろうが、別にタレント議員が総理大臣になったわけではなく、宮田輝山東昭子が総理大臣になったわけでもなく、田中角栄三木武夫福田赳夫大平正芳ら、「党人派」と「官僚出身」の違いはあれど、志を持って一代で名声を得た政治家が総理大臣になった。「職業としての政治」を考える時、世襲議員もタレント議員も、その大部分は政治家たる要件を満たさないのではないか。

もっとも、かつての野坂昭如なら、十分に政治家としての要件を満たしていたと思う。しかし、堀内恒夫中畑清谷亮子といった人たちには、到底合格点は与えられない。

*1:http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20100424/1272093977

*2:調べてみると、野坂昭如は最近ラジオ出演や週刊誌への寄稿もしているようだ。