kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

ドストエフスキー『虐げられた人びと』とベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番

いい加減歳をとってしまったが、今でもたまにドストエフスキーの未読の小説でも読みたいなあと思うことがある。いわゆる「五大長編」は20代後半の頃から30代初めにかけて全部読み、『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』は40代になってから読み直したが、まだ一度も読んだことのない作品も多い。だから、本屋で改版されて字が大きくなったものを見つけた時など、気が向いた時に、たまに買って読む。先月後半から、ゴールデンウィーク直後の5月6日まで、要するに連休中に読んでいたのが『虐げられた人びと』だった。


虐げられた人びと (新潮文庫)

虐げられた人びと (新潮文庫)


あらすじ等の紹介は他のサイトに任せて簡単なメモのみ。この作品はドストエフスキーの「転向」前最後の長編と位置づける人もいるようだが、実際のちの「五大長編」と違って、ドストエフスキーがこんな感傷的な小説を書くのかと意外に思わせられた。また、『カラマーゾフの兄弟』を書いた頃には、ゴリゴリの保守反動イデオローグになっていたドストエフスキーだが*1、『虐げられた人びと』にはドストエフスキーが革命に共鳴する思想の持ち主だったことを思い出させる筆致が見られる。但し、『虐げられた人びと』は、『蟹工船』を思わせる題名から受けるイメージとは全く異なり、恋愛小説である。あれっ、これでもドストエフスキー? と思わせる結末の意外性もある。そういえば、『カラマーゾフの兄弟』も推理小説としても読めるのだった。私は『カラマーゾフの兄弟』を、幸いにも真犯人を知らないまま読み進めることができたが、日本語訳の本の中には、カバーに真犯人名を書いたものもあったようだ。『虐げられた人びと』は別にミステリー仕立てでもなんでもないが、ドストエフスキーらしからぬ結末なのである。そしてその物語の終わらせ方にも、後期の作品には見られない感傷性があると思った。

ところで、作中で、ヒロイン・ナターシャの恋敵である、カーチャ(カチェリーナ)、当時流行の思想にかぶれた無邪気な女性が、物語の語り手である小説家のワーニャに、「もし時間があれば、ベートーヴェンの協奏曲の三番を弾いてお聞かせするんですけど。今あれを練習しているんです。あの曲にはそういう感情が……私の今の感情と同じものが含まれているわ」と語るシーンがある(新潮文庫版458頁)。

面白いことに、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番(ハ短調、作品37)のベートーヴェンの全作品中における位置づけと、『虐げられた人びと』のドストエフスキーの全作品中における位置づけはよく似ていると思う。同じハ短調によるモーツァルトのピアノ協奏曲(K.491)に強く影響された作品とされるベートーヴェンの第3ピアノ協奏曲は、中期の「傑作の森」と呼ばれる作品群を生み出す直前の作品で、第5交響曲(いわゆる「運命」交響曲)などと同じ「ハ短調」を用いてはいるけれども、そこには後のベートーヴェンが振り切った感傷性の澱が残っているように思われる。

とはいえ、この『虐げられた人びと』を、私は結構気に入ってしまったのである。とりわけ、薄幸の少女・ネリー(エレーナ)が印象に残る。ネリーが登場すると、急に作品が生き生きとしてくる。逆に、語り手のワーニャやヒロインのナターシャの造形は、のちのドストエフスキーの大作を知っている人間にはいかにも物足りなく思え、それがこの作品の弱点ではあるのだが、ネリーの魅力にはその弱点を補って余りあるものがある。

この小説は、むしろドストエフスキーの「五大長編」をまだ読んでいない読者の方にこそおすすめできるかもしれない。


ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番

*1:カラマーゾフの兄弟』などの後期ドストエフスキーの作品は作者自身の陳腐な思想をはるかに超越したものであることは言うまでもない。