kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

小沢一郎の言う「民のかまど」は単なる「小さな政府」論では?

小沢一郎が「民のかまど」という話を好んでしているらしいことを知った。

小沢の著書『小沢主義』から引用したブログ*1があったので、孫引きする。

政治とは、いったい何か。政治家とはいったい何者か。その答えはさまざまにあるだろう。

法律を作る、国家予算を作る、外交を通じて国益を達成する、更には国際平和を実現する・・・・・・政治家のやるべき仕事は無数にあるわけであるが、僕の考えを言わせてもらえば、政治の使命、役割は次の仁徳天皇の話に尽きていると思う。「日本書紀」に仁徳天皇のエピソードとして、次のような話が紹介されているのはご存じの人も多いだろう。

 ある日、仁徳天皇が皇居の高殿(たかどの)に登って四方を眺めると、人々の家からは少しも煙が上がっていないことに気付いた。天皇は「これはきっと、かまどで煮炊きできないほど国民が生活に困っているからに違いない」と考えて、それから三年の間、租税を免除することにした。

 税を免除したために朝廷の収入はなくなり、そのために皇居の大殿はぼろぼろになり、あちこちから雨漏りがするほどになった。

 しかし、その甲斐あって、三年の後には国中の家から煮炊きの煙が上がるようになった。

 このとき詠んだとされるのが、


 高き屋に、のぼりて見れば 煙り立つ 民のかまどは にぎはひにけり


 という歌である。

 こうして高殿の上から、あちこちの家のかまどから煙が立っている様子を確認した天皇は皇后にこう語った。

 「私は豊かになった。もう心配ないよ」

 それを聞いた皇后が、

 「皇居がこのように朽ち果て、修理する費用もないというのに、何故豊かとおっしゃるのでしょうか。今お聞きしたら、あと三年、さらに無税になさるという話ではないですか」

 と聞き返すと、


 「天皇の位は、そもそも人々のために作られたもの。だから、人々が貧しいということはしなわち私が貧しいということであり、人々が豊かであるということはすなわち私が豊かになったということなのだ」

仁徳天皇は答えた。


 「天皇とは、そもそも人々のために立てられたもの」


 この仁徳天皇の言葉こそ、僕は政治の本質が隠されていると思う。


このたとえ話は、現在の日本には当てはまらないだろう。

現在の日本は、大きな家からは盛大に煙が上がっているのに、小さな家からは全然煙が上がらず、大きな家はますます大きくなり、小さな家が増えるとともに、小さな家にも住めなくなった人が続出している状態だ。

そんな時に、天皇が「租税を免除」したら、いったいどうなるのか。

それまで、天皇は大きな家に住む大金持ちからはより多くの租税を、小さな家に住む人々からはより少ない租税を課し、それを民に再分配して、大きな家が大きくなりすぎないように、小さな家のかまどからは煙が出るように、また、家に住めなくなる人が出てこないようにしていた。

それなのに、天皇が租税を免除したら、大きな家に住む大金持ちは税金を取られずに済んで万歳三唱し、ますます家は大きくなり、かまどからは盛大に煙が出るだろう。そして、小さな家に住む人たちは、租税の免除とひきかえに、病気になった時にかかるお金や、子供に教育を受けさせるためのお金の負担が重くなり、結局かまどから煙が出ない家がますます増える一方になり、中には金持ちの奴隷になる人たちも出てくるかもしれない。

つまり、天皇が租税を免除したら、ますますかまどで煮炊きできない民は増えてしまうのである。

小沢一郎のたとえ話は、単なる「小さな政府」論に過ぎない。

『小沢主義』は、小沢一郎民主党代表に就任した2006年9月に出版された本らしいが、小泉・竹中の構造改革によって格差が拡大したという批判が増してきたこの時期でさえ、小沢一郎は「小さな政府」論を堂々と展開していたのである。