kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「政治主導」とポピュリズム

一面で「小沢切り宣言」「首相「勝負どころだ」」と見出しを打ち、社説では菅直人を正面切って応援している1月5日付朝日新聞の5面に、「民主政権の行き詰まりと民主主義」と題した、長谷部恭男・東大法学部教授と杉田敦・法政大法学部教授の対談を載せている。

長谷部教授は、下記のように主張している。

 小泉政権以降、カリスマ性のあるリーダーと人民一般の間にある、中間的な勢力を抜いていこうという「中抜きのポピュリズム」が強まっています。官僚バッシングがその典型ですが、それと同じような力がマスメディアにも覆いかぶさってきているということでしょう。
(2011年1月5日付朝日新聞掲載「対談 民主政権の行き詰まりと民主主義」より、長谷部恭男・東大教授の発言)


杉田教授も、下記のように呼応する。

 1年前の対談で、政治主導を掲げる民主党政権の官僚外しに懸念を示しましたが、その後、名古屋市や鹿児島県阿久根市のように、議会さえ外してしまおうという動きが出てきた。

 官僚や議会、メディアといった中間的な勢力はこれまで、多様な利害や価値を何とか折り合わせる役割を担ってきました。それを外しても大丈夫だとする人々は、「もうすでに答えは出ている」と思っている。答えはある、調整や審議の必要はない、あとは実行するだけなのに中間勢力が邪魔している、というわけです。本当にそうでしょうか。
(2011年1月5日付朝日新聞掲載「対談 民主政権の行き詰まりと民主主義」より、杉田敦・法大教授の発言)


この対談を見て私が思い出したのは、『世界』1月号に飯田哲也氏が書いていた環境・エネルギー政策に関する記事だ。基本的には自民党経団連の、民主党は電力会社や電機会社の御用労組のそれぞれ言いなりで原発偏重の政策を作るのだけれど、原発偏重がよりむき出しになっているのは民主党の政策だった、それは、自民党の政策には官僚が手を加えて原発の突出を抑えているのに対し、民主党の政策には官僚のチェックが入っていないからだという話である。

長谷部教授と杉田教授は、下記のように語る。

長谷部 政治というのは常に多元的な利害や価値の衝突を調整しながら、実現可能な道を探ることです。事前に正しい答えが用意されているわけではありません。

杉田 そうですね。この間の民主党政権の失敗の背景にも「市民の立場で考えればおのずと意見は一致するはず。答えは決まっている」という、市民派にありがちな発想の「罠」があったと思います。

(2011年1月5日付朝日新聞掲載「対談 民主政権の行き詰まりと民主主義」より)


民主党の政治家が、果たして「市民の立場で」物事を考えているかというと疑問な気もするが、官僚は基本的に強者寄りとはいえ、「多元的な利害や価値の衝突を調整」しようとすることは、自民党の環境エネルギー政策において原発の突出を抑えた例からもうかがわれる。

杉田教授が名古屋市阿久根市の例を出しているが、河村たかし竹原信一のような権力者が好き勝手をやり、それに市民が拍手喝采するような状況は、本当にアブナイ。しかも、河村のごときは、権力者である自身が主導しているにもかかわらず、「庶民革命」を僭称している。もってのほかである。

問題は「政治主導か官僚主導か」ではない。いかに官僚を上手に使いこなすかである。官僚を使いこなせない「政治主導」など、「国民主権の実現」でもなんでもない。単なる「衆愚政治」に過ぎない。政治家と癒着する官僚は悪いけれども、官僚を放逐してしまえば政治が良くなるわけではない。そのことは、官僚のチェックが入らなかったがために、大企業の御用労組の言いなりになった民主党の環境エネルギー政策が、自民党の政策以上に原発が突出した醜悪なものになった例からも明らかだろう。