kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

朝日新聞は社論として「原発賛成」に転向していた

大熊夫妻 - Living, Loving, Thinking, Again より、元朝日新聞「原発推進」記者の大熊由紀子に関して。

1970年代から80年代にかけての彼女の原発報道はたんに一記者の〈熱血〉によるものではなく、〈社の方針〉に従ったものだったのでは? たしか、原発についてはYes butでいくという朝日の内部文書が流出して問題になったことがあったと思う。


原発についてはYes butでいくという朝日の内部文書」については、遠い昔にそういえばそんな話があったなというかすかな記憶がある程度だったが、今日書店で下記の新刊本を見つけて、真相がはっきりわかった。


東電帝国―その失敗の本質 (文春新書)

東電帝国―その失敗の本質 (文春新書)


著者の志村嘉一郎は元朝日新聞の経済記者。帯に、「なぜ朝日新聞は『原発賛成』に転向したのか?」とある。この帯に惹かれてさっそく購入した。以下、同書からの要約。

朝日新聞経済部は、石油危機が勃発する直前の1973年3月、中東情勢の異変から「エネルギーの先行きがおかしくなる」と察知して著者に中東の産油国歴訪を命じた。実際、同年10月には第4次中東戦争をきっかけにして石油危機が起きた。

朝日新聞社は、石油に代わる代替エネルギーとして、反原発派の期待する核融合は実用化に21世紀半ばまでかかると見られていることから、当面の間、原発に頼らざるを得ないと判断した。社論を転換させた責任者は編集担当専務(のち社長)の渡辺誠毅だったという。ナベツネといい渡部恒三といい、「ワタナベ」は原発とよくよく縁があるらしい。朝日は、科学部出身の論説委員・岸田純之助をリーダーとして「原発報道のあり方」の研究会を発足させ、1977年7月に「原子力発電の手引」を社内配布した。これはB6判275ページの分厚いハンドブックで、朝日新聞の社論を "Yes, but" で統一しようとするものだったという。以下前掲書から引用する。

(ハンドブックの)大要は、<二度の石油危機で原油は上がり、西暦2000年ころには石油が枯渇してしまうかもしれない。石油にかわる代替エネルギーの開発と実用化は進んでいない。原発批判学者が期待している核融合は21世紀半ばまでむずかしい。したがって当分の間は、国民のエネルギーは原発に頼らざるを得ない。しかし、個々の原発の立地については地元の総合的な事情を考えるべきだし、事故が起きた場合には正確な報道をすべきである。>

(志村嘉一郎 『東電帝国 その失敗の本質』(文春新書、2011年) 67頁)


この記述には首を傾げるところもある。「二度の石油危機」という箇所だ。第1次石油危機は1973年、第2次石油危機は1979年のはずだから、1977年にハンドブックが配布されたという記述と矛盾するのだ。だが、朝日新聞が社論として「原発容認」ないし「推進」へと舵を切ったことは間違いないだろう。矛盾箇所はおそらく著者の記憶違いで、「二度の石油危機で」は、正しくは「1973年の石油危機で」と書かれるべきものだったのだろうと私は解した。


悪名高い大熊由紀子の『核燃料』の朝日新聞連載が1976年、単行本発行が1977年という事実は、朝日新聞が社として「原発賛成」を打ち出したという時期と一致する。だから、確かに大熊由紀子の『核燃料』の筆致は大熊の熱血によるというより、朝日新聞社の社論に沿うものだったといえる。


岸田純之助は、のち朝日新聞論説主幹に出世した。そして、科学部記者だった大熊由紀子が論説委員に引き立てられたのは、夫の朝日新聞記者・大熊一夫の引きもあったかもしれないが、何より論説主幹を務めた岸田純之助の引きがあったと見るのが自然だろう。大熊由紀子は、原発礼賛記事の論功行賞で論説委員になったものと思われる。


著者によると、朝日が原発賛成に転じた影響は大きく、地方紙が雪崩を打って原発賛成に転向したという。一方、なかなか「原発賛成」に転向しなかったのが毎日新聞で、同紙は朝日が「原発推進」に転向したあとも、『政治を暮らしへ』という1ページ欄で反原発のキャンペーンを張っていた。しかしその裏では、朝日やもともと原発推進論だった読売に広告を出稿する東電に対し、毎日新聞の広告局が何度も「うちにも広告を出してくれ」と頼みにきていたという。しまいには編集局の幹部まで頼みにきた。そうなったらもう陥落したも同然だ。毎日新聞の編集幹部も東電に「原子力発電の記事も慎重にあつかう」と約束した。かくして毎日新聞原発推進勢力の仲間入りを果たした。

ただ、私の個人史からいうと、この微妙なタイミングのズレは大きかった。私の家では、1971年から1977年まで毎日新聞をとっていたが、その頃同紙で露骨な原発礼賛記事を読んだ記憶がほとんどないからだ。東電原発事故のあと「昔、朝日新聞で大熊記者の記事を読んで感銘を受け、原発を受け入れるようになった」というTwitterを時々見かけるが、そのようなインパクトのある原発礼賛記事を毎日新聞で読んだ記憶はない。同紙にはいろんな意見を持った記者が好き勝手な主張を記事にする「記者の目」というコラムが当時からあったから、もちろん原発推進記事も少なからず掲載されていたとは思うが、少なくとも印象には全く残っていない。

もしその頃、家でとっていたのが朝日新聞で、大熊由紀子の『核燃料』を読んでいたとしたら、私が原発に対してどのような意見を持つに至ったかはもはやわからない。ただ、とっていた新聞が朝日(や読売)でなくて良かったと思うばかりである。東電原発事故後に、東電の社員が「石油危機でこれからは原子力しかないということになって原発を進めた」と言っているのを本人の口から聞いたが、私は、あの頃には太陽光、風力、地熱などがしきりに言われてたのになあと思っただけだった。だが、70年代から私はずっと異端だったのだ。東電原発事故が起きた直後に東電を非難する記事をブログに上げたところ大ブーイングを受けて驚いたが、それが「世間」というものだった。私は、もっと反原発論が浸透しているものとばかり思っていた。しかし現実はそうではなかった。

これまでにも何度か書いたが、私には、1973年、たまたま若狭湾への家族旅行の帰りの汽車の中で読んだ『少年ジャンプ』で、『はだしのゲン』の原爆投下の回を目にして強いショックを受けた思い出がある。いろんな偶然が重なって、生まれてこのかた原発を肯定したり原発に賛成したことが一度もない人生を歩むことになった。


それは、単なる偶然に過ぎなかった。