kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

上丸洋一『原発とメディア』(朝日新聞出版)/好著だがやや自制・自省が足りない

原発とメディア 新聞ジャーナリズム2度目の敗北

原発とメディア 新聞ジャーナリズム2度目の敗北


上記は朝日新聞夕刊に昨年秋から連載されている同名の記事のうち、著者(朝日新聞編集委員)が担当した部分に加筆してまとめたもの。朝日新聞原発推進に加担した故木村繁や大熊由紀子の記事をはじめとして、他社も含めたメディアが、東電原発事故が発生した昨年まで、どういう原発報道をしてきたかを検証しており、著者の担当部分は新聞連載中から注目してきた。

結論からいえば、膨大な資料に当たってまとめ上げたたいへんな労作であり、その価値は高いと思う。但し、著者の自制及び自省がやや不足するとの読後感も否めなかった。

著者は朝日新聞の記者なので、検証も朝日新聞に関わる分量がもっとも多い。一般には社外に知られていない社内報等からの引用も多々ある。

終戦の翌日、1945年8月16日の朝日新聞に、早くも原子力の「平和利用」に関するベタ記事が掲載された。それから、ご存じ正力松太郎の大活躍などによって原子力の「平和利用」の大キャンペーンが繰り広げられ、中曽根康弘が予算をぶん取って札束で学者の頬をひっぱたいた。当時は朝日新聞大阪本社も京都・大阪の原子力平和利用展*1を主催したことからもわかるように、「原子力の平和利用」を推進する立場に立った。

当時から、学者や読売新聞科学部長(!)など、「原子力の平和利用」に疑問を抱く人たちはいたが、メディアの主流はそれに目を向けようとはしなかったという。50年代に「バラ色の夢」が描かれていた当時の風潮にあっては、やむを得ない面もあったかもしれない。しかし、60年代に入ると原発の問題点は次々と表面に現れてくる。問題は、それでも惰性で動く原発開発にブレーキがかけられなかったことであり、それは諸外国と比較して日本(やフランス)で顕著な現象だった。

本書から離れるが、故高木仁三郎は、それは何も核兵器保有するポテンシャルを持ち続けたいという思惑からではなく、中央集権的な原子力発電というシステムがそれだけ官僚機構と相性が良かったからで、だから官僚機構が強い日本とフランスで原発が止められなかったのだと指摘していた。官僚の行動メカニズムとしてはそうかもしれないけれど、昨年石破茂が本音を口にしたように、核兵器の開発能力を持とうという意図が、保守というか右翼勢力(たとえば安倍晋三石原慎太郎のような)には間違いなくあると私は考えている。

"Yes, but" を朝日新聞の社論にしたことで悪名高い故岸田純之助(今年死去)だが、著者によると、岸田はそれまでの "Yes" を "Yes, but" に転換したものらしい。岸田の前任の原子力担当論説委員だった奥田教久は、"Yes" の原発容認論を社説に書いていた。

これは実際その通りなのだろう。ただ、これも著書には書かれていないが、1972年に社会党がそれまでの原発容認の態度を改め、原発否定に転じた外部情勢があった。新聞の社会面にも、原発に批判的な記事が増えていたはずだ。岸田純之助の "Yes, but" には、社論を「原発反対」に転じさせない「歯止め」の役割の方が大きかったのではないか。

もちろん、著者もそうした側面について、繰り返し書いてはいる。しかし、1975年から79年にかけて朝日新聞科学部長を務めた故木村繁(1987年死去)や木村の部下だった大熊由紀子の諸々の記事に対する筆誅の厳しさと比較して、岸田純之助に対する批判が甘すぎるのではないかと感じた。大熊由紀子が論説委員になったのは、岸田純之助の意図とは無関係だったのだろうか。

もっとも、昨年文春新書から出版された志村嘉一郎『東電帝国 その失敗の本質』(文春新書)に書かれているような、「1974年に朝日新聞に東電の広告が載ったことをきっかけに、朝日新聞がそれまでの原発否定から原発容認へと転じた」との説は誤りで、朝日新聞が東電原発事故の前に原発否定を社論にしたことは一度もなかったという著者の主張には納得した。それは、読売新聞OBの中村政雄(過激に近く強硬な原発推進派)が常々主張している、かつては原発容認だった朝日(や毎日その他)が、徐々に反原発の傾向を強めてきたという、逆側からの主張とも整合するからである。朝日新聞OBの志村嘉一郎が文春新書に書いたような話は、文春の朝日批判のためのご都合主義に迎合するためと言われても仕方ないかもしれない。

ただ、著者が木村繁や大熊由紀子の悪行(としか読めない)をこれでもか、これでもかとあげつらうあまり、筆が滑っている箇所がそこかしこにあることが気になった。

まず、些事からいえば、本書337〜338頁に紹介されている、『週刊ポスト』1979年10月6日号に掲載された木村繁の談話「そもそも、[東名高速日本坂トンネルの事故など自動車事故では毎年六千人の人が死んでいるじゃないですか。なぜ自動車事故反対といわないんですか」に「<注>」という文字が続いているが、肝心の<注>がどこにもない。木村繁の暴言はもちろん全くの論外だが、こういう粗っぽい編集にも困ったものである。

さらに、納得できない注釈がついている箇所もあった。以下、本書から引用する。引用文は、1976年に朝日新聞に掲載された大熊由紀子の悪名高い連載『核燃料』の引用から始まる。

(前略)
 −− でも「最大仮想事故」といって、燃料棒が高熱のためにドロドロに溶けてしまって、その熱球が原子炉容器の底を突き抜け、地球の裏側まで届くこともあると聞いたけれど……。
「地球の裏側まで届くなんて、たちの悪いユーモアですよ。最大仮想事故というのは、人間の頭のなかで考えうる最大の事故、という意味です。たとえば、新幹線の場合−−。ある日の正午ごろ、静岡の近くで下り列車が脱線して、上り線に乗り上げたとします。その現場に後続の下り列車と上り列車が、あわせて四十五本も折り重なるようにぶつかり、いっせいに火を噴いて、乗客約六万人が全員焼死したとしましょう」
 −− そんなバカげた事故はありっこないわ。
「と思うでしょう。わたしたち核燃料の場合だって同じことです。原子炉には、新幹線以上に手のこんだ安全装置がいくつもつけてあります」
 −− 原子炉の中では、ウランがやたらに暴れ出さないことは、よくわかったわ。


以上が引用だ。
新幹線の事故について語るのに「四十五本<注>」という数字がどこから出てきたのか不明だが、場合によっては四、五本の列車が「折り重なるようにぶつか」ることは、まるで「ありっこない」わけでもあるまい。
ともあれ、連載はこのように、原発の安全性を強調した。

(上丸洋一著『原発とメディア - 新聞メディア2度目の敗北』(朝日新聞出版, 2012年)271-272頁)


上記引用部分の<注>を下記に示す。

 新聞連載でも単行本『核燃料』でも「四十五本」と書かれているが、大熊の論文「伊方科学裁判の提起したもの」(判例時報八百九十一号)は「四五本」と引用している。元の原稿は「四、五本」だったのに、デスクの木村繁が「十」を書き加えたのではないか、と筆者(上丸)は想像する。(前掲書272頁)


しかし、新幹線が「四、五本」だったとすると、その直後にある「乗客約六万人」と整合しなくなるのである。新幹線が仮に16両編成で、乗車率が100%を超えていたと仮定しても、1本の新幹線に1万2千ないし1万5千人の乗客が乗れるとは考えられない。45本だったとすると、1本当たり1300人強が乗っていたとするとほぼ計算が合う(少なくとも桁は違わない)。著者の想像が正しいとすれば、「乗客約六万人」の部分も木村繁が書き加えていなければならないが、果たしてそうだったのか。本には何も書かれていない。

何より問題だと思うのは、著者は大熊由紀子に長時間インタビューを実施し、その後もメールのやりとりを重ねたと明記しているにもかかわらず、上記のくだりを想像で書いていることだ。こんなことの真偽は、まず大熊由紀子に問い合わせるべきだし、仮に大熊由紀子が記憶にないと返答したなら、そう明記すべきだろう。そこまでやって初めて、信頼できる検証の書物になり得る。逆にそこまでできないのであれば、こんなことは書くべきではない。何より、「四五本」を「四、五本」と読むよりも、「45本」の意味で大熊由紀子が書いた「四五本」を、木村繁が当時の朝日新聞記事の書式に準じて「四十五本」と書き換えたと想像する方がよほど自然だ。ついでに書く(揚げ足を取る)と、当時の木村繁は「デスク」(次長級)ではなく「部長」である。そのことは、上丸洋一自身が本書の中で書いている。

上記の指摘は「何を揚げ足取りして鬼の首を取ったように書き立てるんだ」と思われるかもしれないが、読者は、こうした細部から著者の姿勢を読み取り、その書物が真に信頼を置くに値するかどうかを判断するのである。そして私は、著者の労を多とするし、価値の高い本であるとは認めるけれども、残念ながら全幅の信頼を置く水準にまでは達していないと言わざるを得ない。

この本においては、木村繁と大熊由紀子に対する指弾は熾烈を極めている。たとえば、大熊由紀子が『Voice』1980年11月号に寄稿した「技術を見殺しにする構造」という記事が、木村繁が『土木学会誌』1979年1月号に寄稿した「反技術思想との戦い」という論説と酷似していることを指摘して、大熊由紀子へのインタビューで、「木村さんには確かに、影響を受けたと思います」という言葉を引き出している*2。そこまでやるのであれば、新幹線の本数云々という、読者に疑念を起こさせる妙ちきりんな邪推の文章を書くべきではなかったし、そのような自制がこの種の検証本には求められるのではないか。

最後に、読み終えてもっとも引っかかった、というかわだかまりが残ったのは、1978年に朝日新聞社に入社して、東京本社人事部員を経て1982年から記者として働いた著者自身の自省がほとんど感じられないことだった。著者は、千葉支局員、学芸部員、学芸部次長、オピニオン編集長、『論座』編集長などを経て、2007年から現職(朝日新聞編集委員)に就いているとのことだ。たとえば、著者はフリーのライターやアサヒグラフの編集者が福島原発に潜り込んで記事を書いたこと、さらには堀江邦夫著『原発ジプシー』の出版に至ったことを示し、「しかし、朝日新聞本紙の記者が、原発の下請け労働者に取材してその実態を書くことはなぜか、ほとんどなかった」*3と書いているが、それでは「朝日新聞本紙の記者」だった著者自身はどう行動すべきだったのか。そのことは一言も書かれていない。

著者は東電福島第一原発事故を「新聞ジャーナリズム2度目の敗北」と書くが、敗戦後に毎日新聞の幹部記者が、戦時中にいかに軍部が暗躍したかを書いた本がベストセラーになったことを思い出した。その本は未読だが、おそらく敗戦の責任を全て軍部に押しつけて、自らの責任には頬被りしたものだったのだろうと想像する。それに引き比べて、上丸洋一が書いたこの本は、朝日新聞の責任を問うているではないかと言われるかもしれない。しかし、木村繁や大熊由紀子の暴論に対して、自らの憶測を持ち出してまでも指弾する行き方は、いくら朝日新聞原発容認の論調は木村繁や大熊由紀子だけのせいではないと随所に書かれてはいても、「熱血」で鳴らしたこれらの記者たちに責任の多くを被せてしまっているとの印象は免れない。著者には自制と自省の両方がやや不足しているのではないかと感じた。

だから、せっかくの好著であるにもかかわらず、なんともすっきりしない読後感が残ってしまったのだった。

*1:読売が主催した東京では「博覧会」と銘打たれたが、朝日の大阪本社が主催した京都・大阪のそれはそれぞれ「京都展」「大阪展」と銘打たれたらしい。

*2:本書311-316頁

*3:本書343頁