当ブログにいただいたコメントより。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20110621/1308664790#c1308875678
tegatajijii 2011/06/24 09:34
はじめまして。原発問題は、私の知らないことばかりで、いつも勉強させていただいています。普段はロム専なのですが、初書き込みいたします。
朝日新聞社の大熊記者の件ですが、本日の毎日新聞朝刊に同姓同名の方が写真入りで大きく掲載されています。原発の事は一つも書いてありませんが、同じ方なのでしょうか?肩書きは国際医療福祉大大学院教授となっています。
明らかに同一人物です。
大熊由紀子教授(元朝日新聞記者)は、4月にも毎日新聞の記事に登場したことがあったようです。記事を転載したサイトがいくつかあり、そこから復元して下記に示します。
社会的入院許す国の構造
大熊由紀子 国際医療福祉大大学院教授
私は「福祉と医療・現場と政策・志の縁結び係り&小間使い」という「肩書き」を、名刺に刷っています。福祉と医療は近そうで遠い存在。人脈も法律も役所の窓口もちがいます。すばらしい実践も、なかなか政策に反映されません。両者の橋渡しをするため、福祉や医療に対して「志がある」と私が感じた方々をつなぐ、通称「えにしメール」を始めました。
10年たった今は国境も越え4000人の方々が読んだり転送してくださったりしています。
東日本大震災が起きて4日目のえにしメールにはこう書いて送りました。
「老人ホームの被災はしばしば報じられていますが精神科病院についての報道は忘れられているようです。鍵のかかった病棟から逃げ出すことができない方々のことが気がかりです。」そして、恐れていたことが現実になりました。福島第一原発から10キロ圏内にある精神科病院から救出された高齢者21人が、相次いで避難先で亡くなったのです。私は18日のえにしメールでこう書きました。
「認知症などのお年寄りを精神科病院に送り込む、社会的入院を許すこの国の構造的問題が背後に潜んでいるように思えます」厚生行政に携わった経験のある福田素生・埼玉県立大教授のメールは痛烈でした。
社会的入院を「日本の医療の恥部の一つ」とした上で次のように指摘しました。
「精神科病院関係団体がお年寄りを使って病院の生き残りを図っているように見えますが、弱い人たちを見捨てるこうした問題を私達の社会が自力で解決し、構造を変えることができるかどうか。復興の真の成否はこれにかかっていると思います」この病院に関する3月23日付共同通信の記事は、救出に立ち会った福井県の応援医師の証言として、汚物にまみれ、カルテもなく、衰弱して亡くなってゆくお年寄りの姿を描き出していました。
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私は認知症の人の受けいれを標榜しているこの病院を内側から見ていた人に出会い、こんな話を聞きました。
「開放病棟といえども24時間施錠され自由な出入りはできませんでした。閉鎖病棟には寝かせきりの老人が横たわっていました。」これとは対照的な挑戦をしている人たちもいます。
「精神科病院は認知症には不向き」と自宅まで訪問診療をする医師。
笑顔と誇りをお年よりたちから引き出している福祉の現場。
私はそんな人たちに各地で出会ってきました。けれど、その実践が生かされる制度や政策はなかなか実現しないのです。
おおくま・ゆきこ
東京生まれ。東京大学教養学科卒。
大阪大大学院教授を経て現職。
「『寝たきり老人』のいる国いない国」など著書多数。
大熊由紀子についてネット検索をかけると、かなり前から福祉問題の専門家になったことがすぐにわかる。神野直彦氏や大沢真理氏との共著も出している。それにしても、『核燃料』とは別人のような文体には驚かされる。
この大熊が過去の原発報道についてコメントしたことがあったのかどうか。今のところ何もつかめていない。
最近、堰を切ったように大量に出版されている「脱原発」、「反原発」の本には、大熊の名前はしょっちゅう出てきて、原発推進のA級戦犯のように書かれていることが多い。大熊が沈黙を守り続けることはできないだろう。
The Duelなど - Living, Loving, Thinking, Again より。
それにしても、当時の朝日の原発報道のボス的存在だった岸田純之助の名前を失念していた。大熊由紀子の名前は覚えていても岸田純之助は忘れてしまうというのは、記憶が城内実の名前に占領されて平沼赳夫の名前が記憶の片隅に押しやられてしまうようなものか。
城内実と平沼赳夫のたとえには笑ってしまった。大熊由紀子は、ネット検索で調べても「ある日、東京に生まれる。」などと書いてあって生年月日はわからなかったが、新聞記者として活躍した年代から見て、1940年前後の生まれではないかと想像される。一方、岸田純之助について調べてみたところ、1920年生まれで現在も健在だ。中曽根康弘より2歳下(学年では1年下)だから、中曽根ともども原発推進の生き証人といえるかもしれない。
私は毎日新聞を読んでいた70年代半ばのあと、1977年から1980年までの購読紙は朝日だったので、岸田の名前と岸田が論説主幹だか副主幹だかだったことは覚えている。当時から朝日の記者にしては保守的という印象を持っていた。調べてみたところ、岸田は1977年に朝日新聞論説主幹、83年に同顧問。岸田が朝日の論説顧問を務めていた頃に大熊由紀子が朝日の論説委員になった。やはり岸田の引きだったに違いない。岸田は1985年に朝日新聞を退職しているが、この年に岸田は65歳になっているから、定年退職とみられる。
TBSの金平茂紀が書いた記事より。
http://www.asahi.com/digital/mediareport/TKY201106090286.html(注:リンク切れ)
本誌と同じ朝日新聞社から、僕がテレビ報道の仕事を始めた1977年に、ある本が発行された。『核燃料 探査から廃棄物処理まで』という本で、著者は朝日新聞科学部記者(当時)の大熊由紀子氏だ。先輩記者から「これはまあ教科書のような本だから一応目を通せ」と言われるほど影響力があった本だが、今、読み返すと、推進側に偏した内容がきわ立つ。
《原子力発電所が、どれほど安全かという大づかみの感触には変わりはない。あすにでも大爆発を起こして、地元の人たちが死んでしまう、などとクヨクヨしたり、おどしたりするのは、大きな間違いである》《私は、原発廃絶を唱える多くの人たちが書いたものを読み、実際に会ってみて、彼らが核燃料のことや、放射線の人体への影響などについて、正確な知識を持ちあわせていないことに驚いた。多くの人たちが、アメリカの反原発のパンフレットや、その孫引きを読んだ程度の知識で原発廃絶を主張していた》。
同じく元朝日新聞論説主幹の岸田純之助氏は、日本原子力文化振興財団の監事をされていらっしゃる。これらの人々に今、聞いてみたい。今回の福島原発の事故をどのように思っているのか、と。自分たちのかつての言説に対する責任をどのように感じているのか、と。
その作業は、戦後まもなくの頃、吉本隆明らが行った知識人の「転向」研究と性格が似ているのかもしれない。だが、誰かがやらなければならない作業だと思う。なぜならば前項で記したように原発推進に異を唱えた人々は、ことごとく迫害され排除されてきた歴史があるからだ。
私たちの国の歴史で、「戦争責任」がついにうやむやにされてきたように、「原発推進責任」についても同様の道筋をたどるのか。歴史はやはり繰り返すのだろうか。
金平氏の書く通りで、原発推進報道を行ってきた人たちの責任は、必ずや追及されなければならないと私も思う。
ところで、この金平氏の記事を平然と載せる朝日新聞社は、果たして大熊由紀子や岸田純之助、ひいては朝日新聞社全体のなしてきた原発報道を検証し、批判するつもりはあるのだろうか。
まさか、金平茂紀氏の記事を載せただけで責任を果たしたつもりではあるまいな。