kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

原発とジャーナリズム―大熊由紀子元記者と故岩佐嘉寿幸氏/(上)原発推進過激派ジャーナリスト・中村政雄(元読売新聞)の主張

さて、ようやく本論。

昨日、図書館で見つけた本の中でもっとも私の注意を引きつけたのは下記だ。


原子力と報道 (中公新書ラクレ)

原子力と報道 (中公新書ラクレ)


90年代末に読売新聞傘下に収まってしまった中公新書ラクレから出されたこの本の著者は、元読売新聞論説委員中村政雄。本を一読してわかることは、かつての朝日新聞岸田純之助らの "Yes, but" どころではない、"Yes, and" の原発推進過激派らしいことだ。さすがは原発推進勢力の本家本元・読売新聞の論説委員を務めていただけあって、朝日の原発推進勢力とは比較にならない主張の激しさである。中村は、元NHK解説委員の長岡昌元朝日新聞科学部長の尾崎正直らと組んで、「原子力報道を考える会」というNPOを設立して原子力発電関係の報道姿勢が危険性の強調一辺倒であるという問題についての批判を行った(前掲書148頁)。


この本の主旨は、原発を批判する朝日新聞毎日新聞東京新聞などの主張をひたすらこき下ろし、読売新聞の社論を自画自賛するものだ。あまりに面白いので、読売新聞の読者で原発に懐疑的な方には是非一読をお勧めしたい。読売新聞の購読をやめたくなること請け合いだ。


中村は、同じ中公新書ラクレから『原子力と環境』と題された本も出版していて、小沢信者が泣いて喜びそうな「地球温暖化懐疑論」を展開しているらしい。ネットで調べてみると、2001年9月6日付『電気新聞』に書いた中村政雄の文章が、原発推進勢力のサイトで絶賛されていた*1


原子力と報道』も、パラパラと飛ばし読みした程度だが、先日読んだ内橋克人の『日本の原発、どこで間違えたのか』(朝日新聞出版、2011年=講談社が80年代半ばに発行した『原発への警鐘』の一部を収録したもの)ほかの原発批判派の書物と比較して、まるで反対の記述がされているのに面食らった。

原発批判派の本では、たとえば、第五福竜丸事件は読売新聞のスクープだったのに、社主の正力松太郎原子力の平和利用を引っさげて衆院選に立候補するのに奉仕するために、読売新聞は社論を転換して原発推進派に転じたと書かれている。

一方、中村は1970年頃までは朝日新聞毎日新聞原発に好意的だったのに、その後批判派に転じたとして朝日・毎日を非難している。中村は、1970年頃まで原発を歓迎していた朝日・毎日の記事を例示している。

先日朝日新聞に掲載された記事によると、日本社会党原発に賛成から反対に転じたのが1972年とのことだった。東京電力福島第一原発1号機の運転開始が1971年。1972年というと、原発の問題点が出てきた頃だし、1971年4月まで朝日新聞、1971年5月から1977年6月まで毎日新聞を親がとっていた家に育った私が、原発に全く好意を持たない人間に育ったことからも、70年代初めに朝日や毎日が徐々に反原発へと傾斜していったという中村の主張は、必ずしも原発推進派の偏見とばかりも言えないかもしれないと思う。

問題は朝日にも毎日にもその反動が出たことだ。原発賛成への転向は毎日よりも朝日の方が早く、主導したのは社論に責任を持つ論説副主幹(のち論説主幹)の岸田純之助、先兵が科学部の大熊由紀子、元締めは社長の渡辺誠毅だった。転向への模索は1973年に始まり、76年には大熊由紀子の連載記事『核燃料』が載り、77年には "Yes, but" のハンドブックが朝日社内で配られ、スリーマイル島原発事故が起きた直後の79年夏には、原発立地地域の記者を集めて "Yes, but" の社論を徹底する研修会が朝日社内で開かれた。朝日がそんなに早く「原発容認派」に転向していたとは、今回ネット検索をきっかけに初めて知って驚いた。


さて、そんな中村政雄の『原子力と報道』が特に頁を割いて持ち上げている朝日新聞記者がいる。それがほかならぬ大熊由紀子なのである。この記述がなかなか興味深いのだが、またまた前振りが長くなったので、稿を改める。


(この項下編に続く)