kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

原発と共産党と小沢信者と

原発に関する本を立て続けに読んでいると、「原発とは何だったのか」という疑問は増すばかりだ。惰性で続き、「安全神話」によって原発に対して疑問を持つことが許されない空気が作られ、そのうちに誰も原発について意識しなくなった。これまでの人生を通じて一度も原発を肯定したことのなかった私も、たまに自然エネルギー再生可能エネルギー)に関する論考に接する時以外には原発のことなど考えなくなっていた。東電原発事故以前、自然エネルギーについて書かれた本のどれを買おうかと本屋で選ぶ時、中身に原発に肯定的なことを書いていないかチェックする習慣はあったという程度の、消極的な原発反対論者に過ぎなかった。いつしか思考停止に陥っていたのだ。

今週に入って、たまたま2000年に亡くなった高木仁三郎の遺言ともいえる本を、遅まきながら今頃になって読んでいるところだった。


原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)

原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)


そんなところに、90年代に共産党が高木氏らの「脱原発」運動を批判したという文章をネットで見た。


90年代における共産党の原発問題についての見解 | 市民社会フォーラム *1

 「脱原発」派の運動と主張の大きな問題点は、「すべての原発の廃止」など、最も強行な立場にたっているかのようによそおいながら、国民多数の不安を結集して政府・自民党の無謀な政策を包囲して住民の安全をまもる闘争――政府・電力資本が強引に稼働し、増設をはかっている未完成な原発の危険から住民の安全をまもる緊急の課題への真剣な取り組みを回避するところにあるのです。
大切なことは、原発に不安を持っている八六%のなかにも、原発を一応認める人々が半数内外いて、それらの人々は原発をやめてしまえという立場を、いまとってはいないということを、忘れないことです。
 以上の脱原発派は、核兵器については、社会党と同じ「究極廃絶」か、あるいはほとんど無視する点で共通しています。


上記は、日本共産党出版局が出したという『原発推進政策を転換せよ』という本の77〜78頁に書かれている記述とのことだが、何回読んでも意味が理解できない。ただ感じられるのは社会党(当時)に対する強烈な敵意だけだ。無党派の私は、なんだかなあ、と思ってしまう。

脱原発」とわれわれのちがい


 わが党と「脱原発」派の、原子力に対する見方の違いはどこにあるか、端的にいうと、「脱原発」派は、現在の原発が危険だということから、将来にわたって原子力の平和利用を認めないということを原則的な立場にしています。
これに対して、私たちは、現在の原発の危険性を正面から指摘し、その危険に反対する点では、もっとも一貫した立場をとりますが、人間の英知の所産である原子力の平和利用の可能性を原則的に否定する立場はとらない、という点にあります。
 脱原発派は、核と人類は共存できない、原発はなくす以外にはない、ということを主張しています。
 われわれは、原子力の発見は人類の英知の所産だという立場です。
人類は失敗を繰り返しながら、科学・技術を発展させてきました。
同様にして、将来もまた、発展していくだろう、というのが、われわれの哲学、弁証法唯物論の立場です。
だから、人間はやがて科学・技術の発展によって安全な原発を実現させる方向にすすむだろう、したがって、それを研究することは当然であるといっています。
 ところが、脱原発派は、そんな原子炉などできない、という固定観念から一歩も出ません。核と人類は共存できないの一本槍です。「脱原発」派が、核兵器廃絶の課題を軽視しがちなのも、「核」ということですべてを同一視するこの考え方と結びついたことです。現に、?核兵器は爆発するまで危険でないが、原発は現に動いているから、最も危険な「核」だ?と言った俗論も、「脱原発」派の議論として、よく聞かれることです。

(前掲書81〜82頁)


これも問題だらけの記述だが、共産党がこういった方針を転換したのは、ようやく3.11の東電原発事故を受けてのことだったという。


そういえば、しばらく前から気づいていたのだが、ネットで見る昔からの共産党支持者の間には、「脱原発」論を批判するまでいかなくとも距離を置いている人が少なくないばかりか、中には積極的に原発を肯定し、「脱原発」論を批判する人たちもいる。

私は、上記のような原発に対する共産党の姿勢について、議論が起きなかったことに問題があると思う。それは、「原子力ムラ」が抱える最大の問題点とも通じるし、小沢信者が小沢一郎の犯した(であろう)誤りについて全く議論しないことにも通じる。小沢信者批判にそれてしまって申し訳ないが、下記の小沢信者のTwitterなど、実にひどいものだ。


http://twitter.com/#!/sensouhantai/status/85158261753516033
http://twitter.com/#!/sensouhantai/status/85159257389015041

共産党の井上議員が毎日新聞の「小学生真剣『議論』」を引用して、頼もしい と。確かに頼もしい。けれども、子どもたちにこんな議論をさせている大人の責任を感じないのか。私なら恥ずかしくて紹介なんてできない。共産党は歴史的にソ連などへの配慮から明確な反核を言わなかった前科。

共産党は、3.11までは明確な反原発も言ってこなかった。期限不明の「段階的な撤退」というアイマイ主張。「原発は国民全体の責任」という東電社員の子どもをさらし者にする資格は、共産党にはない。もちろん、だれにもそんな権利はない。子どもに罪はない。


何がひどいかというと、これを書いた人間が、自らが熱烈に支持する小沢一郎原発推進責任に関して一切言及しないことだ。この人間は、昨年9月の民主党代表選で、原発問題に関する小沢一郎のスタンスが露呈することを警戒する文章をブログに書いていた。実際には菅直人小沢一郎同様の原発推進派に転向していたので*2争点にはならなかったが、問題を知っていて黙っている態度が悪質だ。「小沢信者ムラ」の閉鎖性は、「原子力ムラ」にも匹敵する。


さらに脱線すると、この人間は菅直人亀井静香ラインに一本釣りされた自民党のトンデモ議員・浜田和幸についてこう書いている*3

(前略)浜田和幸という人について調べてみた。
ところが、意に反して浜田の評判はあまり悪くない。

もちろん自民党だし、保守というか相当に右翼的な思考回路ではあるが、著書などを見るとハゲタカファンドのことを扱ったものなどが多い。
私が今まで読み聞きしたなかでは、「拒否できない日本」の関岡英之氏に傾向はやや近いようにも思える。

何よりも、浜田はTPPに明確に反対している。 その理由も、農産物ばかりを心配する表面的なものではなく、アメリカによる日本収奪システムとしての本質を突いている。

これは、ちょっと頭をひねってしまう。
アメリカ(日本利権派)のジャパンハンドラーズが、現在の菅直人の後ろ盾であり、原発処理もすべてアメリカが糸を引いているという仮定と矛盾する。

浜田が実は口先男で本当はアメリカの言うなりなのか、菅直人の妄動が実はJHの影響を排除しようとするあがきなのか、あるいは菅が目先の延命のために亀井静香の作戦に乗ったのか。

どうも、直球では答えが見つからないようだから、周辺状況から見ていきたい。

(以後、陰謀論が延々と続くが省略)


いつもこんな調子なのだが、少なくとも共産党小沢一郎を比較すると、共産党の方がはるかに原発に批判的だったことは誰の目にも明らかだ。共産党の支持者には、「小沢一郎なんかと比較するな」と激怒されそうだけれど。


3.11以前の言論を、3.11後の目で批判するな、と言われたら、元朝日新聞の大熊由紀子や岸田純之助に対する批判もできなくなってしまう。あと付けだろうがお茶漬けだろうが、批判は必要だろう。よく言われることだが、共産党は委員長の選挙を公選で行って、対立候補同士がガンガン議論するような政党にならなければ生き残れないのではないかと思っている。


東電原発事故を受けて、共産党支持ブログの中からも、共産党原発に対するスタンスを冷静に評価し、今後の反原発脱原発運動の団結を呼びかける声が出てくるようになったことには注目したい。


http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-2287.html *4

そして311を契機に原発ゼロミッション、期限を決めた原発からの撤退方針を打ち出した。

しかし、それをもって日本共産党の「原発ゼロ」政策は首尾一貫していると、強弁することは歴史を偽造することにつながるだろう。

もう一方で「原子力の平和利用」を主張していたから、日本共産党原発推進論者だったと論難することも事実に反する。

いま大切なことは原発に反対する人たちが過去の行きがかりを捨てて、力をあわせて原発からの全面撤退を求める行動を大きくすることではあると思う。


これまで一度も反原発ないし脱原発の旗幟を鮮明にしたことがない小沢一郎を信奉していながら、「学者でありながら今の菅を支持する飯田哲也は本物ではない」と妄言を吐き続ける小沢信者とは対極といえようか。


本当は、最近、某大先生を含む小沢信者が連呼している、「まず脱原発だ、自然エネルギーはそのあとだ」という妄論を批判する予定だったが、時間が尽きた。これについては別途書くことにする。