kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

脱原発をめぐり、政治家や電波芸者の意見も混沌としてきたが

脱原発」をめぐって、政治家や電波芸者たちの意見が混沌としてきた。

今朝は、寝坊して9時まで寝ていたために(今朝の東京は気温が下がって寝苦しさが解消されたのだった)、いつも日曜日に見ているTBSの『サンデーモーニング』を見逃した。なんでも、寺島実郎保安院のやらせを「矮小な問題」と言い放ったとのこと。

少し前から気になっているのがこの寺島実郎の「復権」だ。私の記憶によると、寺島は、過去4週で『サンデーモーニング』に1度しか出演していなかった。欠→欠→出→欠ときていたから、今日は出ないと思ってたら出てきたのか。また、テレビ朝日の『報ステ』には、村上春樹の講演を寺島が批判した回を最後に見かけなかったので干されたのか、しめしめと思ってたら、先週出てきたので興ざめした。この寺島は、3月以降の原発議論において「ベストミックス」なる原発推進論を振りかざした、代表的な「原発推進派」として振る舞っている。

テレビ番組の話に戻ると、張本勲の「喝」を見たって仕方がないから、NHK与野党の討論を見たら、玄葉光一郎のスタンスが3月の震災直後とはずいぶん違っていたのに驚いた。東電原発事故が起きた直後には、事故は素早く収束して、日本の原子力技術の高さが示されるだろうなどと言っていたので腹を立てていたのだが、現在の玄葉光一郎は明らかに「来年夏に原発が全基停止しても対応できる」態勢作りを念頭に置いている。そうとしか思えない発言が聞かれた。そして、自然エネルギーを「産業構造を転換する好機」ととらえる発言もしていた。この立場は、「ベストミックス」論に立つ馬淵澄夫(実質的な原発推進勢力)なんかよりずっと「脱原発」寄りなのだが、それもそのはず、玄葉は福島出身の議員なのだ。自民党でさえ福島県連は「脱原発」を打ち出している。玄葉はいやでも「脱原発」の主張を行わざるを得ない立場にいるのである。

玄葉は民主党内では「無派閥」らしいが、同じさきがけ出身の前原誠司と主義主張は近いのではないかと思う。前原も、東電原発事故でエネルギー政策に関する見解を一変させたと語っていた。現在では玄葉や前原の方が、菅直人には及ばないものの、馬淵澄夫と比較すれば「脱原発」寄りといえるだろう。

何が言いたいかというと、例によって小沢一派及び小沢信者のことである。馬淵澄夫は小鳩派に色目を使っている気配が感じられる。小沢派からは代表選の候補は出せないだろう。一時、小沢派は野田佳彦を推すとの観測が流れていたが、野田佳彦となると馬淵澄夫と比較してもさらに「原発推進勢力」寄りの人間だ。野田佳彦馬淵澄夫という民主党保守派のかつての「盟友」にして原発維持派同士が、小沢派の票をめぐって争う光景はなかなか皮肉なものだ。そして、前原誠司玄葉光一郎自然エネルギーを日本経済の活性化のチャンスと捉えて、新たな利権に食い込もうとするとなると、今後、新自由主義勢力としての民主党の中心は、後者へと移っていくのではないだろうか。

技術屋のはしくれだった私から見ると、原発は安全性をはじめとする幾多の問題もさることながら、技術の本質が非常に古いものであるところに強い苛立ちを感じる。70年代、80年代に論じられた議論が、現在でも平気で通用するのだ。そりゃ「利権の殿堂」ができ上がるに決まっている。私は本来、「利権」という言葉を用いて議論するのが嫌いな人間で、東電原発事故以前にはブログでも意識して「利権」という文字を封印してきたのだが、こと原発に関しては「利権」という言葉を用いた批判をせざるを得ないと考えている。

もちろん、自然エネルギーだって新たな「利権」を作り出すに決まっている。どんな産業にだって「利権」はつきものに決まっているのだから、「利権がある」ないし「利権が生まれる」ことから技術を否定するのはナンセンスだ。ただ、「硬直化した利権」はやはり批判されなければならない。「原発利権」はその最たるものだ。

もちろん、前原誠司玄葉光一郎が「自然エネルギー族」議員になったあかつきには、私は彼らを強く批判する立場に立つだろう。現在だって、典型的な新自由主義者である彼らなど、断じて支持しない。

しかし、「敵味方思考」のみによって支持する政治家を選ぶ「小沢一派」や「小沢信者」は、それ以下の存在であって、早晩政治の議論の表舞台から消えていくだろうと私は予想するのである。