kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

『南沙織がいたころ』(永井良和著、朝日新書)

もう一冊読んだ本。


南沙織がいたころ (朝日新書)

南沙織がいたころ (朝日新書)


南沙織。1971〜73年頃に人気のあったアイドル歌手で、当時天地真理小柳ルミ子とともに「三人娘」と言われていた。私はこの三人の中では断然南沙織を気に入っていたが、熱烈なファンというほどでもなかった。だが、1973年に彼女が出した『傷つく世代』と『色づく街』にはちょっとした思い出があることもあって、99年頃に彼女のベスト盤のCDを買ったことがある。とはいえ繰り返して聴くほどでもないと思ったものだった。

今年文庫化された佐野眞一の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』を読まなければ、この本を買う気にはならなかっただろう。この本にも同書からの引用が出てくるが、佐野眞一は何度か南沙織に言及していた。しかしそれは南沙織が「本土によって作られた」スターだという文脈に沿ったものだ。だが、沖縄の本土復帰の直前に南沙織が「引退宣言」をしていたことなど、記憶の片隅にもなかった。南沙織キャンディーズと同じ年(1978年)に引退したことは覚えていたが、彼女が引退を宣言したり実際に引退した時期に関しては、完全に記憶違いをしていた。私は南沙織キャンディーズが解散した1978年の春頃に引退の意思表示をして夏頃引退したと思い込んでいたのだが、実際には同年の夏に引退宣言を行ない、秋に引退したのだった。そんな記憶違いをしていた程度だから、たいしたファンではなかった。

それなのに本書に興味を引かれたのは、立ち読みしていて、南沙織がデビュー当時「奄美大島出身」と紹介されていたという記述が目に入ったからだ。佐野の著書のレビューにも書いたが、「沖縄による奄美差別」というものがあった。一方、南沙織の父親は米軍基地で働いていて、南沙織本人もアメリカンスクールに通っていたという話*1は、私が子供の頃から聞いていた。そこらへんの話がいろいろ書かれているのではないかと思ってこの本を買った。

だが、そのあたりに言及があるのは、主に本書のうしろの4分の1である。それまでの部分は、南沙織の熱心なファンには面白いかもしれないが、私にはやや退屈だった。本を読みながらYouTube南沙織の動画を見ていたが、それが横道に逸れて、かつては何の関心もなかった天地真理の動画に興味を引きつけられた。天地の全盛期の動画と数年前の動画を見て、そのあまりの落差に愕然としたのである。時々新聞にインタビューが載って注目される南沙織との隔絶の大きさは想像を絶するほどだ。同時に行進曲調の『若葉のささやき』などの、今の感覚からはぶっ飛んでいるとさえ思える天地のヒット曲も新鮮な驚きだった。思うのだが、天地真理には「逃げ場」がなかったのではないか。比べて南沙織はアイドル時代から「逃げ場」を求めていた。「普通の女の子」になりたかったキャンディーズの先駆者だった。山口百恵も早く引退した。のちには松田聖子を筆頭とするしたたかな「アイドル」たちが現れた。天地真理の芸名が梶原一騎原作の劇画からとられたことは、十数年前に斎藤貴男が書いた梶原の評伝を読んで気づいていたが、「作り物の極致」のような天地真理の短い栄光とその後長く続いたであろう苦悩も、70年代前半という時代の一面をよく表していると思えた。もしデビューが10年遅ければ、天地真理はあんな悲惨なことにはならなかったのではないか。

話がそれた。南沙織は、デビュー当時フィリピン人の父親と奄美大島出身の母親の間に生まれたとされていたそうだが、実はフィリピン人の父親は「育ての親」で、本当の父親は日本人だったという。そのこと自体は以前ネットで見て知っていたが、母親の件についていうと、「内間」という母親の姓は沖縄の姓なのではないかと思った。実は佐野眞一の本を読むまで知らなかったのだが、奄美大島には漢字一文字の姓が多いらしいのだ。そしてネット検索で調べてみると、奄美に漢字一文字の姓が多い理由は、薩摩がとった奄美への差別政策が原因だったとされている。奄美の人を本土(薩摩)の人と区別するために一文字の姓を強いたというのだ。対して「内間」という姓は、私の予想通り典型的な沖縄の姓であって、南沙織の母親も奄美大島出身とは言ってもルーツは沖縄本島なのではないかと書かれたブログ記事もあった。

その一方、彼女の「育ての親」のフィリピン人男性だが、かつて米軍はフィリピン人をかなり雇っていたものの、その後フィリピン人より安く雇える沖縄の現地の人に置き換えていき、1965年には原則フィリピン人は解雇と決まった、しかし一部の人たちだけは米軍基地に留められたという。南沙織の「育ての父」もその一人だったが、彼も沖縄の本土復帰によって職を失った。

こうなると、「支配(差別)する側」と「支配(差別)される側」が交錯する立場に立っていた南沙織の両親の立場は、あまりにも複雑だ。よそ者が軽々しく言及して良いのだろうかと思いながら、この記事を書いた次第。

*1:実際にはアメリカンスクールではなく、インターナショナルスクールだったとのこと。詳細は本書を直接参照されたい。