kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「反貧困」も「脱原発」も「ハシズム」に回収されかかっている

「官僚支配批判」と「政治主導」の欺瞞 - kojitakenの日記 でも紹介した『きまぐれな日々』にお寄せいただいた杉山真大さんのコメント*1の一節、

誰もがネオリベに親和的だったりする歪んだ風潮の中では、どんな政治的潮流もハシズム的なものに収斂されてしまう

が頭から離れない。思い当たることが多過ぎるのだ。


それは、何も小沢一郎橋下徹にすり寄ったり、それに合わせてかつては橋下徹を罵っていた「小沢信者」たちが次々と「橋下支持」へと転向したことではない。そんなことは十分想定していた。

そうではなく、実生活で私の周囲にいる人たち(自民党支持者は少なく、民主党支持者ないし民主党寄りの人が圧倒的に多い)のことである。いろんな人がいて、ひところ小沢一郎擁護論をぶっていた人(最近は言わなくなったが)や、東電原発事故以降「脱原発」に入れあげている人(「反小沢」でもある)、何人かのグループでTPPを批判し合っている人たち(前二者とは別の人たち。一部のネット民の思い込みとは違って、「脱原発」と「反TPP」の人たちの重なり合いはそんなに多くないと私は認識している)など、さまざまな「リベラル」の人たちがいるのだが、揃いも揃って橋下徹を容認しているのである。彼らはみな東京都、千葉県、神奈川県、埼玉県などの首都圏に在住しているが、これが「都市部リベラル」の典型的な例なのだろうと思う。聞くところによると、日頃熱心な「護憲派」として振る舞う人の間にも「橋下支持」は浸透しているとのことだ。


最近、「リベラル」の間で熱心に論じられた議題というと、3,4年前の「反貧困」、昨年来の「脱原発」、それに保守派の間にも多い「反TPP」などが挙げられる。このうち、「反貧困」と「脱原発」はすでに「みんなの党」的なものに回収され始めていると私は思う。たとえば、こんな本があった。


脱貧困の経済学-日本はまだ変えられる

脱貧困の経済学-日本はまだ変えられる


みんなの党」シンパの経済学者・飯田泰之雨宮処凛の対談本だが、これが実に面白いのである。リフレ派の経済学者・飯田泰之は思いのほか「再分配」の必要性も強く主張もしている。飯田泰之は、最低賃金の引き上げや派遣労働の規制には反対しているが、再分配の強化を強く求めてもいる。例えば下記の書評をご参照いただきたい。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/datsuhinkon-no-keizaigaku.html


上記書評にさらに追加すると、日本政府の財政がここまで悪化したのは、1999年、つまり小渕恵三・自自(公)連立政権時代以降「金持ち減税」をやり過ぎたからだ(前掲書89-90頁)*2と指摘しているほか、累進課税のメリットとして、景気の調整機能を持つことも指摘している(前掲書179-180頁)。聞くところによると、湯浅誠は「累進課税の強化」を打ち出すと強い反発を受けるとの理由で、この主張を手控えているらしいが、ある意味飯田泰之の方が湯浅誠などよりよほど正論を前面に押し出しているともいえる。

しかし、そんな飯田泰之が属するクラスタの手口はどうだろうか。これに関して、某所で下記「はてなダイアリー」の記事を教えてもらったので、下記に紹介する。


日本の新自由主義は集団主義的 - dongfang99の日記

 私が「新自由主義」と呼ばれるものが嫌いなのは、その社会観や経済理論そのものではない。むしろ、規制緩和や市場競争の強化を呼号する人たちのなかに、例外なく官僚・公務員から高齢正社員にいたるまでの「既得権益者」へのルサンチマンが蔓延している(少なくともそれを利用して自説を正当化する)ことにある。そこには例外がなくと言ってよいほど、「あいつらだけずるい」という集団主義的な感情が語られている。

 高橋洋一氏が典型的だが、経済に関する説明ではそれなりに説得的なのに、肝心なところで中二病としか言いようのない官僚への既得権批判や陰謀論になだれこんでしまう。社会保障の専門家である鈴木亘氏もそうだが、既得権批判を持ち込まなくても十分説得的な議論ができるはずなのに、もっとも肝心要の部分でそういう批判を繰り出して全ての議論を台無しにしまう。

 既得権批判や陰謀論は、まともな学者と思われたいのであれば徹底して禁欲すべきなのだが、何でそうなってしまうのかと言えば、それが日本の読者に「受ける」ことを実感としてよく理解しているからだろう。節度のある学者であれば、そこにむしろ危険性を感じて一歩引くべきなのだが、一部の人は積極的に乗っかって自説の正当化に利用してしまうわけである。

 日本の「新自由主義者」が嫌いなのは、そこに日本人の中にあるドロドロとしたルサンチマンがこびりついており、当人もそれを積極的に利用しようとしている点にある。この意味で、フリードマンなど筋金入りの「新自由主義者」が必ずしも嫌いではないのは、そういうルサンチマンがほとんどない点にあると言える。


つまり、「みんなの党」系の学者や(元)官僚らの主張は、個々の論点には見るべきところもあるのだが、多数派を形成するプロセスにおいて、「肝心なところで中二病としか言いようのない官僚への既得権批判や陰謀論になだれこんでしまう」のである。そのような勢力に、雨宮処凛らの「反貧困」も回収されてしまう恐れが強まってきた*3湯浅誠累進課税強化の主張さえ手控えているという話が事実であるとするなら、オピニオン・リーダーとして物足りないと言わざるを得ない。


飯田哲也らの「脱原発自然エネルギー推進」の主張にしても、同様に古賀茂明や古賀をブレーンとする橋下徹に回収されていきかねない危惧を持っている。飯田哲也が90年代に最初にアプローチした政界の人間は社民党福島瑞穂だが、いまや社民党絶滅危惧種になってしまっている。だから飯田哲也が多数派を形成するために保守へのアプローチを行なったのは当然だが、保守本流や、保守傍流でも中曽根康弘あるいは岸信介の流れをくむ政治家はみな「原発推進派」だから*4、もともと「脱原発」と相性の良い新自由主義系の政治家や官僚が「脱原発」の流れに乗った。要するに問題は飯田哲也ら「脱原発」論者よりもむしろ、いつまでも原発にこだわる、必ずしも新自由主義系とは限らない人々(政治家に限らず一般市民も)の側にある。

呆れるのは、ネットの「小沢信者」のクラスタが、例によって武田邦彦だの早川某だのに入れあげていることである。「脱原発」系リベラル・左派の「カルト化」が、「脱原発」を「新自由主義者のもの」にしてしまいかけている。


かくして、「ハシズム」につながる流れはどんどん太くなっていく。橋下徹と「みんなの党」の親和性の強さは自明だろう。一方、社民主義的な「リベラル・左派」の流れはもはや枯れる寸前まできている。極右の平沼赳夫らを「立ち枯れ日本」と呼んでバカにしてきたわれわれこそ、気づいてみれば「立ち枯れ」寸前というわけである。

*1:http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1235.html#comment13400

*2:飯田泰之が指摘する日本の大減税の開始時点が、自自(公)連立政権時代の「1999年」であることに注目されたい。つまり、「減税のやり過ぎ」で日本政府の財政悪化を招いた原因の一つとして、当時自由党にいて連立与党の一員だった小沢一郎の存在も挙げられるのである。

*3:断っておくが、私は飯田泰之自身も「肝心なところで中二病としか言いようのない官僚への既得権批判や陰謀論になだれこんでしまう」人だとは言っていない。だが、飯田が傾倒している高橋洋一のような人物や、飯田が属していると見られるクラスタにはそのような傾向を持った人が多いことを問題視しているのである。

*4:この点に関しては、もともと「核武装」の野望を持つ岸信介系あるいは中曽根康弘系の右派政治家が「原発推進」の立場に立つのはむしろ当然だと思う。問題は、「保守本流」のふがいなさである。前福島県知事の佐藤栄作久の実例が示すように、「保守本流」は自らの原点に立ち返れば「脱原発」の政策を打ち出してしかるべきだと私は考えている。