kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

最近読んだ本/辺見庸ほか

最近読んだ本。


美と破局 (辺見庸コレクション 3)

美と破局 (辺見庸コレクション 3)


東京に移ってきてから辺見庸の本を読んでいなかったことが気になっていたので、正月休みの2日から3日にかけて読んだのが、毎日新聞社から出ている「辺見庸コレクション」の3冊目にあたる『美と破局』。これは、引っ越しのすぐ前の頃、岡山か大阪のどちらかは忘れたが西日本の本屋で買ったものだったが、読みそびれていたのだった。既刊書に収録されている文章がかなり混ざっているせいもある。本は、新しい文章から次第に古い文章へと遡っていく構成をとる。第III章には、休刊(廃刊)になった講談社の月刊誌『現代』の巻頭に載っていた「潜思録」が収録されている。安倍晋三が総理大臣だった2007年の文章には、毎月のように安倍晋三批判のフレーズが出てくる。思えば、私が辺見庸を読むようになったのは、2006年に『現代』に掲載された文章を読んだのがきっかけだった。

「潜思録」の16本目(『現代』2008年4月号掲載)、「年年歳歳花相似たり」には、民主党(当時小沢一郎代表)について下記の論評がなされている。

大方が次期政権に擬する民主党が、そのじつ執政前から疑似自民党的本性をあらわにし、自民党との境界線もますますおぼろになっている以上、本質的変化は民主党政権にも、いわゆる大連立にも望みがたい。古い松柏を薪とし桑畑を大海原に変えるような真のパワーはどこから生まれるのか。第三の波は永田町ではなく、怒りと嘆きを共有する民草から起こされなくてはならない。そうでなければ、「年年歳歳悪花相似たり」である。(辺見庸『美と破局』116頁)


妥当な論評だろう。自民党政権と鳩山民主党の間に断絶を見出し、それを菅、野田両政権がもとの自民党政治に戻してしまったとする「小沢信者」史観は誤りであって、民主党は「小鳩」の頃から「疑似自民党」だった。

「第三の波は永田町ではなく」などと書かれると、橋下徹を連想するそそっかしい人間もいるかもしれないが、前記の文章の2か月後に辺見庸は「愚昧の浸透圧」と題して下記のように書いている。

 怒りをなえさせるもの−−それは語ることの容易ではない深い羞じの感情である。西で大都市の知事に当選したという得意満面の青年が、傲岸不遜を絵にかいたような東の大都市の知事に、あいさつと称してぺこぺことゴマをすりにいき、取材陣、というよりテレビと新聞の糞バエどもがぶんぶんとこれにたかった。懇談後、何を話したのか問われた傲慢知事、ギロリとまわりを睨めつけて、さもえらそうに「いえないねえ……」。晴眼だけれども卓眼ではないためか、テレビがひり出した排泄物にしか見えない西の青年と暴力団ふうにしか映らない東の老人、まるで二人して世界制覇でもなしたかのように、肩で風切り、いいたい放題である。傲慢老人の下劣な暴言謗言はつとに有名であり、なぞるまでもない。青年もまた、日本のいちばん情けないところは単独で戦争ができないことだの、核武装肯定だの、ニートには拘留のうえ労役をかすだのと、まともな議論以前のいわば戯論の主である。(辺見庸『美と破局』119頁)


同じ文章で、辺見庸は当時の法務大臣にも触れている。

それだけではない。大量の死刑執行を命じてはひとり悦に入っている、異様極まる法相にも、われわれは高い税金をはらわされている。三人は病的な社会観、人間観においてどこかつうじる……などと書きながら、彼らについて語ること自体にやはり汚濁感を禁じえず、思いたわむばかりなのだ。(辺見庸『美と破局』119頁)


言うまでもないが、辺見庸が言及しているのは石原慎太郎橋下徹鳩山邦夫の3人である。死刑執行については、政権交代後、改造前の菅内閣の法相、千葉景子が2人の死刑を執行したのを最後に、4人(!)の法相は死刑を執行してこなかったが、野田改造内閣小川敏夫法相は死刑を執行することを明言している。ますます民主党政権自民党政権との違いをなくしていく。

石原と橋下について書かれた文章は、「知事」を「市長」に置き換えれば、現在の描写としても通用しそうだ。最近ではゴマをすり合う馴れ合い仲間に小沢一郎野田佳彦谷垣禎一渡辺喜美らが加わっている。


この本では、第II章「詩編」に収録された詩「ズボズボ」が印象に残る。巻末を見ると「書き下ろし」となっているが、これらの詩は本書刊行の翌年(2010年に)同じ毎日新聞社から出版された辺見庸の詩集『生首』にも収録されたようだ。毎日の「辺見庸コレクション」の欠点は、この例に見られるように他の本との重複が多いことである。


瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ (NHK出版新書)

瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ (NHK出版新書)


これは今月出た新刊。新書本ということもあって辺見庸の本としては短時間で読める。宮城県石巻市生まれの辺見庸が「3.11」を語るという内容で、昨年4月にNHKで放送された番組をもとに大幅にリライトされたものとのこと。私はNHKの番組は見逃してしまった。本には毎日新聞社から昨年(2011年)出版された詩集『眼の海』からいくつかの詩が引用されていたが、この詩集への興味をひかれた。今年1月8日に東京・池袋のジュンク堂書店で買った本だが、この書店には『眼の海』も平積みにされていた。この日は昨年から気になっていたもののまだ買っていなかった同じ著者の『水の透視画法』も買ったこともあり、『眼の海』はまたの機会に、と思って買わなかったのだが、それを後悔した。東京のジュンク堂を訪れたのは初めてだったが(神戸、大阪や姫路のジュンク堂にはかつてよく行った)、現在よく行く神保町の三省堂東京堂とはやはり本の置き方が違う。高校生の頃、三宮センター街ジュンク堂は行きつけの本屋だった。

「あとがき」に著者は本書のテーマをあげているので引用する。「言葉と言葉の間に屍がある」と「人間存在というものの根源的な無責任さ」。いずれも第六章「わたしの死者」で取り上げられている。


限界集落の真実―過疎の村は消えるか? (ちくま新書)

限界集落の真実―過疎の村は消えるか? (ちくま新書)


これも今月出た新刊。帯に「消滅しそうな集落などいったいどこにあるのか?」と書かれており、表紙に、本文から「限界集落問題を、地域社会の消滅予言ではなく、避けるべきリスク問題として提示し、逆にそこから将来あるべき地域社会の姿を描き出していきたい」という文章が抽出されている。

なかなか興味をそそる帯にひかれて買った。この問題が注目を集めたのは2007年夏であり、これは、安倍晋三を総裁とする自民党参院選で惨敗した頃だ。小泉政権の「三位一体改革」が都市と地方の格差を拡大したとしてクローズアップされた。

だが、現実に消滅した集落などないではないか、「限界集落」などと名付けることで逆に自己予言の成就(ありもしない危機が現実に起きる)を招くという罠まで存在する。そうではなく、真に持続可能な豊かな地域社会を構想したい。この問題提起は非常に面白い。実際に現在、たとえば「みんなの党」系の論者などの中は、「効率性の悪い場所には消えてもらえ」と平然と言い放つ人たちがいる。

本書でこの問題に対して十分な処方が提示されたかというと、残念ながらそこまではいっていないように思われたが、興味深く読み進めることができた。