日本の供託金は、イギリスの33倍、カナダの43倍、韓国の2倍、オーストラリアの60倍、シンガポールの4倍 - カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記/はてダ版 で、供託金について取り上げられている。
供託金については、神戸大・上脇博之教授による下記の議論がある。上脇教授は供託金制度が「違憲」とする見解だ。
http://homepage3.nifty.com/kenpofaq/jinken/5-6Q4.htm
(前略) 以上の供託金は、一定の得票(例えば衆議院小選挙区選出議員の選挙の場合には有効投票総数の10分の1)を獲得すれば、立候補者本人に戻ってくるのですが、その要件を充足しなかった場合には国家に帰属することになっています(公選法第93条、第94条)。
なぜ、このような供託制度が設けられたのかといえば、この制度を肯定する論理によると、次のように説明されています。
つまり、いわゆる公営選挙(立候補すると選挙に要する費用の一部が選挙公営の費用として国庫補助される)の下で、選挙の妨害や売名など不正な目的をもった者が立候補することが考えられるが、そのような立候補を抑制するためである、あるいは、選挙でそもそも当選の見込みもない泡沫候補や泡沫政党が選挙に立候補することが考えられるが、そのような立候補を選挙前から排除するためであり、これによって自由かつ公正な選挙を実現するためである、と。
そして、ここでは、憲法が「…議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める」(第47条)と規定していることにつき、「選挙に関する事項は国会の広い立法裁量である」との解釈が前提となっているようです。
しかし、私見では、このような論理は、日本国憲法がかつての君主主権および制限選挙を否定し、国民主権(前文、第1条)および普通選挙(第15条)を採用し、議員および選挙人の資格について差別を禁止していること(第44条)から考えると、憲法上許容されないと解されます。
そもそも、選挙権は基本的人権の一つであり、被選挙権または立候補の自由は、選挙権と表裏をなす人権(あるいは憲法上の権利)です。ですから、この人権は、その他の基本的人権と同じように内在的制約に服すことはあっても、国会の広範な立法裁量に委ねられていると解することはできません。
そこで、前述の、供託金制度を肯定する論理を検討すると、それらが憲法上被選挙権を制約する理由とは到底なり得ないことが明らかになります。
まず、自由で公正な選挙を妨害する者に対して法律でそれを規制することそれ自体は、内在的制約として憲法上許容されるでしょう。しかし、そのために供託金制度を用意しなければならない必要性はありません。自由で公正な選挙の妨害を予防・防止するのであれば、そのような妨害行為に対する制裁を必要最低限の範囲内で準備すればいいのだし、また現行法はそれを用意しています(公選法第221条以下)。供託金を没収される候補者や、供託金を工面できず立候補しなかった者がすべて自由で公正な選挙を妨害する者だと断じ得ないことからも、この理由は適切とは言えません。
また、売名で立候補する者に対する予防という論理も同様に適切ではありません。供託金を没収される候補者や、供託金を工面できず立候補しなかった者がすべて売名であるなどと断じ得ないからです。他方、売名によって得る利益が供託金よりも大きければ、供託金をあえて犠牲にしてでも立候補するでしょうから、売名の立候補者に対する抑止にはならないでしょう。また、たとえ売名での立候補が行われたとしてもそれをどう判断するかは主権者である国民が選挙で結論を出せばいいことであり、それが民主主義選挙のはずです。
泡沫候補や泡沫政党についての判断も国民が選挙における投票で判断すればいいことであり、事前に国家がその立候補を抑制する必要はどこにもないのです。
カマヤン氏の記事には、2008年に自民党が供託金没収点の緩和や、金額の引き下げの検討に着手した時の経緯を記したWikipediaの記事が引用されている。それによると、法案が国会に提出され、自公与党のほか共産党と社民党が賛成したが、民主党は当時の代表・小沢一郎が「次元の低い問題外の話」と言い放って反対した。法案は衆院で可決されたが、麻生太郎首相(当時)が衆院を解散したために廃案になったとのこと*1。
カマヤン氏は
日本の供託金が異様に高いのは、貧民の意見を国政に反映させたくない、という意思の表れなんだろうなあ。イギリス並みにするのが順当だろうなあ。
と書くが、「貧民の意見なんか間違っても国政に反映させまい」という鋼鉄のように強い意志を持っているのが小沢一郎と思われる。