kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

高田がんが2021年12月25日に死去していた

 「高田がん」(高田巌)が昨年12月25日に死去していたことを、ずいぶん古い下記記事(2011年7月21日)のコメント欄にて教えていただいた。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 ウォストーク

深作清次郎氏は昭和62年9月22日に、高田がん氏は令和3年12月25日に亡くなりました。

 

 元号、特に現元号は使わないことにしているので×××3年っていつだっけと一瞬思ったが、去年じゃん。まだ死んでから2か月半しか経ってない。

 しかしWikipediaには高田がんの死が反映されていた。

 

高田 がん(たかだ がん、1930年昭和5年5月23日 - 2021年〈令和3年〉12月25日)は、愛媛県八幡浜市出身の政治運動家特殊株主。「反共全国遊説隊」隊長、元自称「参議院比例代表研究家」。広義の街宣右翼に該当するが任侠系人士ではない。

経歴[編集]

17歳で中学校代用教員に採用される[1]。敗戦直後の動乱期に新聞配達から日雇労働まで多彩な職業を変転し、その中でアプレゲール的信念としての反共主義に基づく「赤狩り」志向が醸成された模様[要出典]

1960年前後の安保闘争期に翼賛院外団活動を本格化させ、1963年4月の統一地方選挙で注目された東京都知事選挙に、「(誇り高き)選挙屋」と嘯き無差別大量立候補で社会的批判を浴びていた、肥後亨グループの公認(この時は団体名が『肥後亨』)で初立候補。同年、第30回衆議院議員総選挙でも肥後亨グループの背番号候補の一員に夫婦で名を連ねたが、革新系候補に対する選挙妨害、言論封殺と過度の当て擦りが問題視され、マスコミの報道規制(いわゆる泡沫候補の締め出し強化)の原因を作った。

1964年、大量立候補に関する詐欺罪で摘発された肥後亨が収監中に急死したため、しばらく他団体に身を寄せた後、1969年に自らの一人一党『反共全国遊説隊』を旗揚げし[2]、肥後から選挙屋稼業を継承。隊長と称して全国の知事選を含む各種首長選、国政選挙から市区議会議員補欠選挙に至るまで、1970年代を通じ選挙機会を見ては出馬。71選総てに落選し、そのほとんどにおいて法定得票数未満で供託金を没収されるも、露出の多さから一定の知名度を得た。1974・1977・1980年の参議院議員通常選挙全国区に三回連続立候補しており、有名人や著名人が毎回多数立候補する中で、順調に票数を増やしていった。出生地愛媛県の県内得票においては50番以内であり、当選圏内であった。1980年の参院選選挙公報では「今度こそ」の文言が見られた。

1965年第7回参議院議員通常選挙東京都選挙区)では、高田と阿部忠夫が『反共遊撃隊』公認で、小林哲也[要曖昧さ回避]島名正雄が『高田がん後援会本部』公認で、福山卓美曾田治雄が『高田がん親衛隊本部』公認で、各々立候補し下位落選している。これらの内、阿部(おとぼけ正治郎 → 阿部十七[3])、小林(小林二二)、島名(島名二三)、曾田(曽田二一)、高田夫妻(高田十二・十八)は、肥後亨事務所の背番号候補の残党。

政治ゴロ行為[4]を巡る仲間割れから、1982年には長崎県警察恐喝罪で摘発される。商法改正で特殊株主に厳しい規制が加えられた1980年代半ばより不活発化し、巨額の供託金出費を伴う国政選、知事選への立候補が見られなくなり、従って政見放送の機会もなくなったため、次第に忘れられた存在になる。

ソビエト連邦の崩壊後の平成初期にも散発的に立候補し、東京都議会議員補欠選挙では法定得票を上回る善戦振りを見せた事もあったものの、各右翼団体の最大のパトロンだった笹川良一国際勝共連合元名誉会長)の死去に伴い、完全に沙汰止みになる。2002年に一旦は活動再開を宣言し、地方選挙に立候補の動きを見せたが出馬には至らず。ブログの更新も2008年以降行われていなかった[5]

2021年12月25日早朝に死去。その翌日、親族により訃報が公表された[6]。91歳没。

 

出典:高田がん - Wikipedia

 

 高田がんの親族による死亡告知のブログ記事は下記。

 

ameblo.jp

 

 高田がんは田中角栄が逮捕された年である1976年の衆院選新潟3区から立候補した印象が強い。関西の選挙によく出ていたイメージがあったが、前記Wikipediaの「選挙歴」の項目を見ると初挑戦は1963年の東京都知事選で、1978年頃以降は関東、特に東京からの出馬が多い。その頃に東京に引っ越したものでもあろうか。1991年4月の東京都議選補欠選挙(新宿選挙区)では供託金の返還を生涯でただ一度受けた。当時は自民党幹事長の小沢一郎北方四島ソ連から「買おうとしていた」時期だったから、高田がんは選挙選で激しく小沢を批判していたかもしれない。

 91歳没というからびっくりするほどの長命でもなかった。命日はニコラエ・チャウシェスクと同日だった。死因ががんだったかどうかは知らない。