TBS系のドラマ『運命の人』第7話の視聴率は13.2%で、一桁の9.9%に終わった第6話から盛り返したらしい。
それでも相変わらず「視聴率低迷」とはいえそうだが、第7話の視聴率が前回より上がったらしいことは、当ダイアリーのアクセス数から想像がついた。先週は「西山事件」関係の記事を書かなかったにもかかわらず、26日の午後9時台と同10時台の当ダイアリーへのアクセス数は前週以上に多かったからだ。このドラマは3月18日が最終回で、全10話らしい。当ダイアリーのアクセス数が毎日曜日の夜にバブル的に増えるのも、あと3回だけだ。
視聴率の低迷は最初から予想できた。というのは、ある年代以上の人々にとっては、このドラマのモデルになった「西山事件」において、「西山記者=悪党」という印象が強く植え付けられているに違いないからだ。実際、「小説家(山崎豊子)が何を書こうと勝手だが、ドラマで取り上げるとなると放送局の見識を疑う」などと書かれたブログを見かけた。
また、それより若い熱湯浴の間では、4年前の毎日新聞英語版サイトの「HENTAI」事件の際に、この事件を境に毎日新聞が部数を落として倒産に追い込まれたことを知った人たちが多いらしく、彼らの間でも西山太吉氏は「悪人」として認識されているようだ。だから、「悪役がヒーローになっている」として、ドラマに異を唱える人間が多い。彼らに言わせればこのドラマは「ミンスと毎日とTBSの『ご都合主義』ドラマ」だそうだ*1。
このドラマにせよ山崎豊子の原作にせよ、こういった「定評」をひっくり返す試みではある。原作を書いた山崎豊子が元毎日新聞記者だったり、TBSがかつては毎日新聞系で、現在も業務提携をしている事実はあるにせよ、あるいは「事実を取材し、小説的に構築したフィクション」、さらにはその小説からもさらに逸脱したテレビドラマといった危うさはあるにせよ、作品に関わった人たちの意欲は買いたいと思う。
余談だが、4年前にネットで沸騰した「毎日叩き」の局面では、植草一秀や城内実がこれに乗じて毎日新聞に対する私怨を晴らそうとしていたので、私はそれを逆手にとって下記の記事を書いたことがあった。
[予告]夏休み明けには「毎日新聞叩き」に反対するキャンペーンを開始します - kojitakenの日記(2008年8月16日)
しかしその後の2010年6月、私の大嫌いな岸井成格が毎日新聞の主筆に就任したのを機に、上記のキャンペーンを中断した。今の毎日新聞は意欲的な若手記者が多いと感じるけれども、上に行けば行くほど腐っていて、新聞全体としてはぱっとしないというのが正直な印象だ。岸井のほかには岩見隆夫がひどいし、かつて西山太吉が属していた政治部の幹部も感心しない。もっとも幹部も若手も一様に冴えない朝日と比較すると「どっちもどっち」だ。丙丁つけがたい。
さてドラマもいよいよ佳境。次回予告で三木昭子元事務官が「復讐の鬼」と化して、テレビのワイドショーに出演するシーンが出てきたが、これも史実に基づいている。リアルの蓮見喜久子元事務官が出演した番組は『3時のあなた』だった。
ナベツネも絶賛する澤地久枝著『密約』は、中央公論社からの初出は1974年で、一審の第14回公判(1973年8月4日)の傍聴記から一審判決(1974年1月31日)までが主に描かれていた*2。ちょうどドラマもそのあたりにさしかかっているので、第8話の放送までの間、何回かに分けて紹介してみたい。
初回となる今回は、リアルのナベツネが「西山事件」で演じた役割(『サンデー毎日』2/19号のナベツネ「寄稿」より) - kojitakenの日記 で紹介したナベツネによる澤地さんの著書への賛辞を思い出しながら、澤地さんの著書の中からナベツネが『週刊読売』に書いた記事を取り上げた部分を紹介したい。
一審判決の頃、蓮見喜久子氏はしきりに週刊誌やテレビに露出した。当時蓮見氏は「背徳漢は無罪になってのうのうとしているのに、女性事務官は有罪判決を受けた。哀れだ」などとして同情されていた。そんな中、ナベツネは異色の記事を書いたのだった。『サンデー毎日』への寄稿でナベツネ自身が言及した、「『西山事件』の証人として - 渡辺恒雄/蓮見さん『聖女』説にみる論理的矛盾」(『週刊読売』1974年2月16日号)である。以下澤地さんの著書から引用する。
ここには、弁護側証人として出廷し、スクープが新聞記者の生命であり、不可欠のものであるとして、国家機密もまた当然スクープの対象であることをのべた渡辺氏によって、はじめて事件全体の流れのなかに蓮見さんをとらえ、問題の本質をあきらかにしようとする冷静な眼と、キャリア二十年余の新聞記者として、情熱が感じられ、興味本位のあるいは悪意を含む他の週刊誌マスコミのなかで、異質の記事になっている。「早く世間から忘れられたい」と言いながら、第三者の男性のプライバシー暴露ともいえる手記を発表した真意を、一種の自己顕示欲の表れか、"知的行動派"であることを示すものかという問いかけ。<西山記者が、彼女との関係の進行に関する事件のプロセスをすべて明らかに出来ないでいる事実を私は知っている。ついに保護しきれなかった情報源を、これ以上傷つけたくないからであろう>、西山夫人が <家族に対する社会的圧迫に耐え、かつ、夫の過誤を許し、激励し続けていた事実については、私は深く感動している。同じジャーナリストとして、不幸なこの事件の経過の中で、われわれにとって、これはひとつの大きな救いであった> とも書かれている。そして、<西山君に新聞人としての落ち度があったのは事実だが、その家族にまで罪はない。西山家の家族も、蓮見家と同様、一日も早く世間から忘れ去られたいのである> とも。
蓮見さんは、西山夫人との関係では加害者の側面をもっている。民法上、蓮見さんは西山夫人から慰謝料を請求され、拒否はできない行為を分担している(蓮見武雄氏が西山氏に対して慰謝料請求権をもつのと同じように−)。西山夫人の沈黙、西山氏のニュース・ソースを保護し得なかった新聞記者としての負い目に乗じて、一方的に被害者である「無垢な女」を演じつづける蓮見さんへ、渡辺氏の文章には、ひかえ目な、しかしつよい抗議がある。
これを読めば、ナベツネが澤地さんの著書を絶賛した理由もわかろうというものだ。1974年の澤地さんもナベツネを絶賛していたのだった。現在からは信じられないが、当時のナベツネにはまだこんな一面が残っていたということだろう。
ドラマでは大森南朋が演じる山辺一雄は、リアルのナベツネとは違ってイケメンだが、ことこの事件にまつわる言動に関しては、リアルのナベツネもドラマに描かれているのに近い役割を演じたのだった。ナベツネが『サンデー毎日』に寄せた「激怒」の寄稿だが、あることないこと描かれたドラマの前半とは打って変わって、後半では自らが「善玉」として描かれることを知り尽くしていたであろうナベツネによる番組の「宣伝」だろうと私が推測したのは、こんな史実があったからでもある。
(この項続く → 第2回「38年後、フィクションに『裁かれる』蓮見喜久子元事務官」)