kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

フィクションと史実と - 澤地久枝『密約 - 外務省機密漏洩事件』を読む・第2回「38年後、フィクションに『裁かれる』蓮見喜久子元事務官」

 フィクションと史実と - 澤地久枝『密約 - 外務省機密漏洩事件』を読む・第1回「リアルのナベツネはいかに動き、いかに書いたか」 - kojitakenの日記 の続き。


 1972年に起きた外務省機密漏洩事件、通称西山事件は、沖縄返還を巡る日米密約を、男女の下半身の問題にすり替えた佐藤栄作政権の権力犯罪であり、真に裁かれるべきは佐藤栄作だったとずっと思ってきた。だから、西山太吉毎日新聞記者と蓮見喜久子元外務省事務官とのスキャンダルには従来関心を持っておらず、「ひそかに情を通じ」と起訴状に書かれた2人の関係までは疑っていなかった。

 ところが実は男女関係についてさえ、検察が描いたストーリーは怪しかった。そのことを今回、TBSテレビのドラマ『運命の人』をきっかけに初めて知った。「西山事件」の裁判当時からこのことを熱心に訴えていたのが澤地久枝氏でありナベツネ渡邉恒雄)だった。



 上記澤地さんの著書には、下記のように書かれている。1974年の文章である。

 蓮見さんが現在の姿勢を保ちつづけている限り、蓮見さんは過去の記憶によってさいなまれ報復される人生を自らえらび、しかも自分以外の人々をまきこみ歴史における負の役割を演じることになる−−。その蓮見さんを、痛ましさを感じながら私たち自身が裁かなければならなくなるのではないか。

澤地久枝『密約 - 外務省機密漏洩事件』(岩波現代文庫, 2006年)213頁)


 今がその時なのだ、そう私は思った。いわば、一審判決から38年の年月が経って、突然蓮見喜久子氏が「フィクション」を通じて「裁かれる」ことになった形だ。ドラマや山崎豊子氏の小説には作り物が多いことはわかり切っているので、それなら真実はどうだったのだろう、そう思って調べていくうち、澤地さんの本に行き当たった。そこには「事実は小説より奇なり」を地で行った蓮見喜久子氏の姿が描かれていたのだった。蓮見氏の現在の消息を私は知らない。亡くなったとの情報はないから、おそらく健在なのだろう。ただ、現在の姓は「蓮見」ではないはずだ。氏はまさか、存命中にこんなテレビドラマが放送されようとは夢にも思わなかったのではなかろうか。

 真の問題は「日米密約」であり、裁かれるべきは佐藤栄作以下当時の日本政府であって、それに比べたら蓮見氏や西山氏の問題など取るに足りない。そんなことは当然だ。だが、今回のドラマに対する反響をネットで調べてみて、まだまだ西山元記者への悪いイメージが定着していることがわかった。問題の真の所在を明らかにするためには、西山氏の名誉回復がなされねばならない。その過程で、必然的に蓮見喜久子氏の責任を問うことは避けて通れない。即ち、蓮見氏は歴史の審判を受けなければならない。そう私は考える。

 澤地さんの本の第11章から、一審判決前後に発売された週刊誌の記事の見出しをピックアップしておこう。

  • 「ジャンボ企画 マスコミ初登場 真相告白第1弾 蓮見喜久子さん夫妻が語り合った5時間=なぜ私は、西山記者と情を通じたのか!『好きなタイプの男性ではなかった。だが、あのとき……』と嗚咽にむせび−−」(『女性自身』1974年2月9・16日号)
  • 「手記 外務省機密文書漏洩事件 判決と離婚を期して 私の告白 蓮見喜久子」(『週刊新潮』1974年2月7日号)
  • 「外務省機密漏えい事件二つの秘話 夫・蓮見武雄氏が告白する『事件前後』の妻」(『週刊朝日』1974年2月15日号)
  • 「緊急徹底取材=外務省機密漏えい事件 「西山記者無罪」の陰で病む蓮見夫妻の深い傷 判決直後本誌に告白した離婚・夫婦生活、常時の真相」(『週刊ポスト』1974年2月15日号)
  • 「独占手記/蓮見武雄(56歳)『妻・蓮見喜久子との離婚を 私は決心できない!』 西山記者と "情を通じた" 妻が、有罪判決を受けた直後、別居中の夫が綴った痛恨の叫び!」(『女性セブン』1974年2月20日号)

澤地久枝『密約 - 外務省機密漏洩事件』(岩波現代文庫, 2006年)225-234頁より)


 これに加えてフジテレビ系で放送されていたワイドショー『3時のあなた』にまで出演したのだから、蓮見喜久子氏及び夫の武雄氏の露出ぶりはいささか過剰だ。だが、当時は夫妻が同情され、一人無罪判決を勝ち得た西山元記者は「悪玉」として徹底的に指弾された。

 澤地さんの著書は1974年に発売され、西山氏の逆転有罪が確定した1978年に増補版が出されたが、以後2006年に岩波現代文庫版が出版されるまで、長らく絶版になっていた。この本に基づいた単発のテレビドラマを1978年にテレビ朝日が制作したが、これも10年後に劇場版が公開されるまで再放送さえされなかった。この作品を監督したのは、日本テレビ系のホームコメディ『パパと呼ばないで』(1972〜73年)で脚本を書いていた千野皓司だったが、澤地さんの原作に忠実な作りの作品だったという(未見)。ドラマは1978年度の日本テレビ大賞優秀賞を受賞したが、千野氏はこの作品以降、2年ほど仕事が回ってこず、干されていたとのことだ。「西山事件」に触れることは、長年の自民党政権時代、「タブー」とされていたのだろうか。

(この項続く → 第3回「天声人語と市川房枝」