kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

鎌田慧『狭山事件の真実』を読む

鎌田慧著『狭山事件の真実』を読んだ。


狭山事件の真実 (岩波現代文庫)

狭山事件の真実 (岩波現代文庫)


1970年代に子供時代を過ごした西日本出身の方で、小学校の「同和教育」で「狭山事件」について教わった記憶のある方は多いだろう。

1963年(昭和38年)に埼玉県の狭山市で起きた、女子高生の殺人事件。被差別部落在住の石川一雄氏が犯人として逮捕、起訴された。1964年に一審(浦和地裁)で死刑判決。被告は控訴したが、二審判決(東京高裁)は実にそれから10年後の1974年で、無期懲役との判決が下された。3年後上告棄却。

私が「同和教育」でビデオ放映の授業を受けたのは、まだ二審判決が出る前だった。当時西日本では部落解放同盟の影響力が強く、各地で同様の教育が行なわれたはずだ。当時私の見聞した限りでは、兵庫県広島県で特に部落解放同盟の影響が大きかった。

当時、共産党部落解放同盟を批判するチラシを撒いていて、1975年だったか、普段は共産党を毛嫌いしている親が、そのチラシを見て「賛成!」と声をあげていたことが忘れがたい。70年代後半に私が強い影響を受けた高校の政治経済の教師は社民主義者で、共産党とは距離のある人だったが、その教師も「まだ考え方の固まっていない小学生に価値観を押しつけるような教育は好ましくない」と言っていた。私もそれに同感で、身を持って受けた「同和教育」は「思想教育」といえるものだったと思う。

その後、『別冊宝島』のシリーズ「同和利権の真相」を読んだ。ネット検索をかけると、2003年から04年にかけて4冊刊行されたようだが、4冊目は買わなかった。最初の3冊は買って読んだ。だいぶ前に捨ててしまって手元には残っていないが、寺園敦史、一ノ宮美成、グループK21らの編集で、一ノ宮の経歴は不詳だが、寺園は共産党系の人である。これらのムックにも狭山事件及び石川一雄氏への言及があったが、概ね辛辣な批判だった。「同和利権」批判にはうなずけるところも多かったが、狭山事件に対する評価はそれで良いのだろうかと思った。

結局、部落解放同盟と、それを批判する全解同共産党系)のいずれに対しても全面的に賛同することはできなかった。そんなこんなで、これまで「狭山事件」を敬遠してきたというのが本当のところだった。

数年前から、この事件について考え直さなければならないとは思っていたのだが、昨年、そのきっかけを与えてくれた2件があった。1つは、昨年6月19日に放送されたテレビ朝日サンデーフロントライン』中の特集だった。石川一雄氏が無実であることが確信できる内容だった。

もう1件は、昨年9月に読んだ佐野眞一著『東電OL症候群』の第2部「神様、やってない」の第3章「差別」に、狭山事件が言及されていたことだ。


東電OL症候群(シンドローム) (新潮文庫)

東電OL症候群(シンドローム) (新潮文庫)


佐野は、「いまや警察のデッチあげだということがほぼ明らかになった狭山事件」(新潮文庫版164頁)と書いている。なぜ佐野が狭山事件に言及したかというと、1999年に狭山事件の再審請求を棄却した東京高裁の高木俊夫(1936-2008)が、2000年12月22日に東電OL殺人事件の二審で、一審で無罪判決を受けたゴビンダ・マイナリ被告に逆転有罪(無期懲役)の判決を下したからだ。当然ながら、佐野は高木を痛烈にこき下ろしている。さらに高木は、一昨年に再審で無罪が確定した足利事件で、1996年に控訴棄却の判決を下した裁判長でもある。本当に腹立たしい男だが、残念ながらもう鬼籍に入っているため、どんなに罵倒してもそれが高木に届くことはもうない。

それはともかく、テレ朝の特集番組と、東電OL殺人事件を扱った佐野眞一の本を読んでからしばらくして、本屋で鎌田慧の『狭山事件の真実』を見かけ、これは必ず読まなければならないと思ったのだった。しかし実際に本を買ったのは今年2月であり、さらに本を読み始めたのは一昨日だった。文庫版で481頁とかなり分厚い本だし、冒頭の部分は決して読みやすくないが、第2章以降は引っ張られるようにぐいぐい読み進められた。

まず最初に驚かされるのは、第2章「別件逮捕と別件起訴」に紹介されている事件発生当時の新聞報道である。朝日、毎日、東京などの在京主要紙及び地元紙の「埼玉新聞」の記事には、被差別部落に対する差別的な視点がむき出しになっており、かつ一方的に警察の視点から書かれている。現在、マスコミはよく「マスゴミ」などと罵倒されるが、60年代当時ほどのひどい差別性は見出せまい*1

私にとっては、部落解放同盟がどうの、共産党がどうのという前に、「本当のところはどうだったのか」というのがまず知りたいところである。だから、当時の新聞記事を引用したこの第2章から一気に引き込まれた。最近テレビドラマに取り上げられて話題になった「西山事件」(外務省機密漏洩事件=1972年)についても同様の関心をかき立てられたのだが、「西山事件」については澤地久枝、「狭山事件」については鎌田慧の、ともに岩波現代文庫から再版された本がその欲求に応えてくれた。澤地、鎌田両氏はともに「さようなら原発1000万人アクション」名を連ねていることは改めてご紹介するまでもないだろう。ここでは、「西山事件」を扱った澤地久枝の本にもう一度リンクを張っておく。


密約―外務省機密漏洩事件 (岩波現代文庫)

密約―外務省機密漏洩事件 (岩波現代文庫)


澤地久枝の本は初出が1974年(増補版は1978年)で、版元は中央公論社だったが、鎌田慧の『狭山事件の真実』の初出は2004年、版元は草思社だった。鎌田本は2005年にテレビ朝日が『ザ・スクープ』で狭山事件を取り上げるきっかけを作ったのではないかと思う。

狭山事件で一審判決があっという間に出たのに、二審判決が出るのに10年もかかったのは、控訴をきっかけに石川一雄氏が無実を主張し始めたからだ。石川氏は当初、警察にだまされて実兄が真犯人だと思い込まされ、一家を支えている兄を守るために自らが罪をかぶろうとしたのだ。警察との口約束で、10年で出所できると石川氏は無邪気に信じ込んでいた。インテリである弁護士たちを石川氏は信じられず、非インテリの取調官たちには心を許していたのである。一審で死刑判決を受けてもその確信に変わりはなく、周りの人から「死刑判決を受けたんだから本当に死刑になってしまうぞ」と言われて初めて、石川氏は犯行を否認するようになった。それまで、字の読み書きもろくにできなかった石川氏は、獄中で猛勉強して読み書きを覚え、文章で自己主張するようになった。石川氏が非識字者だったことは被差別部落の貧困に原因があることはいうまでもない。このあたりを記述した鎌田慧の文章は読ませる。なお、Wikipediaは「西山事件」関係の項もひどいけれど、「狭山事件」の項も実にひどくて、その記述は信頼に値しないので注意が必要だ。

石川氏支援運動をめぐるいがみ合いや愚行については、鎌田慧は多くを語っていない。本文中では、下記の記述が目につく程度だ。

 この日*2、東京高裁では、狭山事件の判決公判以外の、予定されていた民事、刑事事件ともにすべての審理は中止となっていた。二日前、新左翼系の学生たちが、石川被告の無罪判決を叫んで長官室に乱入したとばっちりである。

 石川被告の無罪判決を期待する声が日に日にたかまっていたときだけに、学生たちの乱入は、そのあとの寺尾正二裁判長殴打事件とともに、セクトの自己誇示以外、裁判にとってなんの意味もない。むしろ支援運動に暴力性と恐怖のイメージを付与した、致命的な蛮行だった。これが「狭山事件」の大いなる不幸である。

鎌田慧狭山事件の真実』(岩波現代文庫, 2010年)325頁)


だが、「あとがき」で、鎌田慧共産党新左翼の双方を批判している。以下引用する。

 石川一雄にとっての不幸は、最初に支援していた日本共産党が、裁判とは関係のない、大衆運動の路線のちがいによって、部落解放同盟と対立、敵対するようになったことである。1965年(昭和40年)の「同和対策審議会」の答申にたいして、共産党は否定的な評価をだして、部落解放運動から撤退した。その後、「一般『刑事事件』と民主的救援運動」とのタイトルの無署名論文を「赤旗」(1975年1月11日)に掲載した。

 そこには、「あれこれの刑事事件についての『公正裁判要求運動』を……課題にするのも重大な無責任をともなう誤りである」などと書かれていた。これを契機にして、狭山事件から手を引くようになる。弁護団にはなんの相談もなかった論文だった。

 政党が、自分の党への政治弾圧以外にはたちあがらない、というのでは、日々の生活のなかで、警察権力に苦しめられているひとびとの不幸を見捨て、無関心を装う結果を招いて、支持層をせばめることになる。石川一雄の無実を証明するために奮闘していた弁護人たちの歴史を、抹殺すべきではない。

 さらに石川一雄にとっての不幸は、東京高裁寺尾判決がだされる直前に、新左翼系の学生たちが、高裁長官室に乱入したことである。そして判決のあとにも、やはり新左翼系の学生が、寺尾裁判長を殴打するという暴力事件を発生させている。

 これらの行動は、運動のひろがりをつくりだすための大きなマイナスとなった。判決は不当なものだったにせよ、誤判を証明し、正当な判決をひきだすためには、弁護団の努力と言論の力と公正な裁判をもとめる社会的な声の拡大しかない。

 狭山事件は、ごくありふれた殺人事件のひとつでしかなかった。ところが、「犯罪の温床」などという、差別的な視点から描かれた警察官のストーリーを、検事も裁判官も支持し、さらにマスコミがそれを増幅して、社会全般に根強く伏在している、被差別部落にたいする偏見と差別意識に収斂させたのである。新左翼系学生たちの暴力行為もまた、差別意識を増長させるのに一役買った。

 仮出獄されたとはいえ、いまなお精神的に拘束されている石川一雄の状況を、不当な抑圧をうけているひとりの人間の不幸として受け止め、その不遇を自分の問題として、無実の証明にむけた運動にかかわっていく。そのことによって、偏見と差別によってつくりだされた「狭山事件」を解決し、自らのなかにある差別性を克服する道を辿れると、わたしは考えている。

鎌田慧狭山事件の真実』(岩波現代文庫, 2010年)460-462頁)


上記引用の鎌田慧の文章に共感した。鎌田が言及する裁判長殴打事件の他にも、70年代には新左翼勢力による蛮行が目立った。だからそれを批判する共産党の主張には説得力があった。しかし、同党系の人たちが編集したと見られる『別冊宝島』の「同和利権の真相」シリーズには、露骨な悪意を込めて石川一雄氏を当てこすった表現が少なからずあり、それには強い違和感を持った。そうした両陣営に対する懐疑から、「狭山事件」を敬遠するようになっていたのだが、それが間違った態度だったことを思い知らされた。狭山事件石川一雄氏の主任弁護士を務めた中田直人氏は、2009年に亡くなったが、茨城県知事選に共産党推薦で立候補したこともある共産党系の弁護士である。その中田氏は、1974年の二審判決後、事件の弁護から手を引かざるを得なかったという*3。中田氏の仕事が「なかったこと」にされてしまってはなるまい。

昔、小学校の同和教育における「狭山事件」の教えられ方に納得いかなかった、私と同様の経験をお持ちの人たちにも、是非一読をおすすめしたい本である。

*1:今は本当にひどい時代だと思うけれども、それでもかつてより良くなっている部分は間違いなくある。

*2:1974年10月31日の「狭山事件」二審判決の日。

*3:http://flowmanagement.jp/wordpress/archives/600