kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

回想・「郵政総選挙」から「安倍政権崩壊」まで(2005〜07年)

減税日本」入りが報じられた小林興起で忘れられないのは2005年の「郵政解散」直後のテレビ番組。東京の豊島区か練馬区かの商店街で、「誰に投票しますか」とテレビのインタビュアーに訊かれた地元の買い物客のおばちゃんたちが「そりゃ私たちはなんたって興起さんよねえ」と答えるシーンが映し出されて、小泉純一郎に刺客を送り込まれていた元自民党タカ派議員の小林興起は相好を崩した。

それと同じ番組だったか、東京10区で誰を応援するかと訊かれた石原慎太郎は、小林興起を援護する発言をし始めたところ、スタジオの冷ややかな空気に凍り付いて二の句が継げず、「うぐっ」と呻いた。そして、それに続くはずだった小林擁護の言葉を呑み込んでしまったのだった。石原の小心さを象徴する出来事だった。

ついでに、自民党から公認されず刺客を送り込まれることが決まった亀井静香平沼赳夫がうろたえるぶざまな姿が映し出された。亀井はほどなく立ち直って国民新党を結成したが、平沼は無所属のまま総選挙に挑み、ようやく5年後に「たちあがれ日本」を結成した。しかし、「立ち枯れ日本」と揶揄されるしょぼい政党で、頼りにしていた城内実は参加せず、与謝野馨にも逃げられる始末で、平沼は寂しい政治人生の晩年を送っている。

後日談は別として、これらはすべて2005年8月14日放送のフジテレビ『報道2001』での出来事ではなかったかと思うが、もう7年も経つので記憶はずいぶん怪しい。他の番組や他の放送日の出来事も混ざっているかもしれない。

あの「郵政解散」を小泉純一郎が断行したのは、その前週の週明けの月曜日、2005年8月8日だった。当時の民主党代表・岡田克也はガッツポーズをして見せた。総選挙の投票日が9月11日と決まって、誰ともなく「自爆テロ解散」と名づけた。これは政権交代が起きると私も思った。

当時の空気を、2005年8月9日付のブログ『世に倦む日日』から引用する。


小泉政治の終わりの終わり - 「構造改革」の嘘の露呈と終焉 : 世に倦む日日

(前略)総辞職は完敗であり、解散総選挙ならば勝利の目があるとして賭けに出たのだろうが、まさに変人。国政の私物化もいいところだ。常識で考えれば自民党は大敗して政権を失う。投票日までの一ヶ月の間、小泉首相が何を仕掛けてくるのか、ウイニングストラテジーが読めない。(後略)


誰もがそう思った。私自身も同じことを思った。しかし、そのすべては「刺客作戦」で覆った。小泉純一郎森喜朗らと謀った「ウイニングストラテジー」とは「刺客作戦」だったのだ。小泉政権新自由主義政策が支持されたのでも何でもない。それまで権勢を誇っていた人間が「刺客」に葬られ、ぶざまな姿をさらす見世物が、大衆の嗜虐性を大いに刺激した。それだけの話である。そんな些末事が政治を一変させた。そして、たかだか10パーセントの人が「刺客戦法」に浮かれて小泉を支持しただけで、「完敗」を予想された総選挙を「地滑り的圧勝」に変えてしまったのが「小選挙区制」である。これほど「百害あって一利なし」の選挙制度はないと私はずっと主張し続けているのだが、一度決まったことが惰性で延々と続くのが世の常である。

刺客作戦」の話に戻ると、あの亀井静香でさえ不意を突かれ、8月14日のテレビ報道でうろたえる醜態を晒した。平沼赳夫に至っては政治生命の最後に至るまでその打撃から立ち直れなかった(これからの残り少ない平沼の政治生命において、失地回復はほぼ不可能だろう)。今でも吹き出すのは野田聖子で、自身に対する「刺客」がなかなか決まらなかった野田は、「将来の総理大臣候補の呼び声が高い私にだけは、小泉首相も刺客は送らないだろう」とひそかに期待していたフシがあった。しかしそのはかない望みも、刺客の中でも特に注目された佐藤ゆかりを送り込まれたところで潰えた。とはいえ野田は選挙で辛くも佐藤を振り切った。2009年の「政権交代選挙」においても、選挙区で大敗しながら比例代表で復活した。野田にはそれだけの地力があるとはいえるが、もはや野田を「未来の総理候補」だなどとは誰も思っていない。

小泉純一郎の「刺客作戦」によって、腹心の城内実を失うことになった安倍晋三も腹の虫が治まらなかっただろうが、その怒りをぐっとこらえて小泉純一郎に忍従した。その甲斐あって2006年に総理大臣になった。岸信介佐藤栄作安倍晋太郎などの一族をずっと嫌ってきた私は、この安倍晋三を倒すためにブログを立ち上げたようなものだ。

安倍は、対北朝鮮交渉の「強硬姿勢」で人気を得た。当時、土井たか子菅直人を「間抜け」呼ばわりして、逆に「2ちゃんねる」で「安倍の方が間抜けだと思った人の数」というスレが立ち、それを私は愛読していた。このスレが立ったのは2002年10月だから、安倍晋三はそれ以来10年に及ぶ私の天敵である。その歴史において最高の瞬間は、2007年9月12日の安倍晋三の辞任劇だった。同年7月29日の参院選における惨敗がその引き金となった。

安倍晋三は人気があるのかないのかわからない政治家である。2002年の対北朝鮮強硬姿勢で「国民的人気」を得たかに見えた安倍を、小泉は2003年総選挙の切り札として幹事長に抜擢したが、自民党は同年11月の総選挙で議席を減らした。さらに、翌2004年の参院選を前にして安倍は「目標」とした51議席を下回れば幹事長を辞任すると言ったが、自民党議席は低く設定したその目標にも届かず、49議席にとどまって民主党の50議席を下回り、安倍は幹事長辞任に追い込まれた。その後「幹事長代理」に、いわば降格された形で就任したが、「郵政総選挙」当時は安倍が要職にいたとはいえない。「郵政総選挙」で圧勝すると、第3次小泉純一郎内閣で安倍は内閣官房長官に就任したが、耐震強度偽装事件、ライブドア事件の両方で、非公式後援会「安晋会」(いまだに正体不明だが、耐震偽装事件に絡んだヒューザー社長の小嶋進が会員で、ライブドア事件で変死を遂げたエイチ・エス証券副社長の野口英昭は「理事」だったという)の名前が相次いで出るなど、どす黒い疑惑が次々と噴出した。橋下との勉強会に参加した安倍の側近・西村康稔ライブドア事件に関して名前が取り沙汰されたが、こちらも真相不明のままうやむやになってしまった。

追及の気運がしぼんだのは、民主党前原誠司野田佳彦(「野ダメ」)らの執行部による「偽メール事件」の収拾失敗のせいだったが、敵失に助けられる形で、安倍はほぼ無風で総裁選を勝ち抜いた。安倍内閣発足当時、その支持率は小泉内閣に迫る高さだったし、その後徐々に落ちていったとはいえ、それでもその後の5つの内閣よりは高支持率で推移したが、参院選2か月前に大きな問題になった「消えた年金」や農水相松岡利勝の自殺などで突然の逆風に晒され、参院選直前には「KY」(空気が読めない)というありがたくない異名までいただいて参院選に惨敗した。結局安倍晋三が要職に就いていた時の自民党の国政選挙は3戦全敗に終わっている。安倍はそれでも一度は総理の座にしがみつこうとしたものの、腹が持ちこたえられずに所信表明演説の2日後に辞任するという、前代未聞かつこれ以上考えられないくらいの醜態を晒すことになった。

その後を受けた福田康夫内閣は、閣僚の多くを安倍内閣から引き継いだ。当時、私はこれに不満を持ったが、現在ではこの頃には既に小沢民主党との「大連立」構想が進んでいて、大連立内閣への移行をスムーズにするために、新内閣に「暫定政権」的な性格を持たせたものであったことが明らかになっている。さらにその後、思想的には安倍晋三とある程度近い麻生太郎が総理大臣になったが、派閥が違うこともあって安倍晋三の影響力はさらに低下し、民主党への政権交代後は、東電原発事故の際の「海水注入」問題で、ガセネタに基づいて菅内閣を攻撃するという、かつて自らを助けた「偽メール事件」と寸分違わないデマ攻勢くらいしか「ウリ」のない政治家にまで凋落した。これが現在の安倍晋三の姿である。

だが、「捨てる神あれば拾う神あり」とはよく言ったもので、陰謀論者として悪名高いリチャード・コシミズに頼るまでに落ちぶれた小林興起小沢一郎が救いの手をさしのべたと同じように、「デマ拡散政治家」安倍晋三にも今をときめく橋下徹が救いの手をさしのべた。はっきり言って橋下徹にとっての安倍晋三は、小沢一郎にとっての海部俊樹海江田万里と同格の「担ぐ御輿は軽くてパーがいい」だけの存在だろうとしか私は思っていないが、安倍晋三がどう反応するかには興味津々なのである。

多くの人が指摘するように、このまま自民党に残っても安倍晋三には再起の道はないのだから。