ここ数年、タイトルに興味をひかれた新書の類を本屋で衝動買いして読む習慣があったが、期待はずれに終わる割合があまりにも多いので、少しパターンを変えてみようかと思う今日この頃。そこで、古めの「新書」を読んでみようかと思って買ったのが下記の岩波新書。1977年に出版された。
- 作者: 小倉朗
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1977/05/20
- メディア: 新書
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著者は1990年に74歳で亡くなった「現代音楽」の作曲家。個人的な話で恐縮だが、ネットで調べてみたら、偶然にも命日と没年齢が小生の亡父と同じだった。但し没年と誕生日は違う。小倉朗氏の方が早く亡くなっているが、亡父より数か月長生きだった。
ネット検索をかけてみると、さすがというべきか、sumita-m氏が2009年に取り上げていた。
他にも、この本を取り上げた「はてなダイアリー」は合計7件あった*1。
この本は、『松岡正剛の千冊千夜』でも「第653夜」で取り上げられている。
- 653夜『日本の耳』小倉朗|松岡正剛の千夜千冊(2002年11月6日)
松岡氏の書評によると、
ところで、本書は角田忠信の日本人の脳には虫の音を聞き取る機能が備わっているという例の「日本人の脳」になって、終わっている。これは本書がその後あまり読まれなくなった理由ではないかと危惧したくなるような“勇み足”であるのだが、ぼくとしてはその“勇み足”をふくめて、本書を多くの日本のミュージシャンや日本文化論者が読むことを薦めたい。
推薦の理由はいろいろあるが、日本語がだんだん早口になっていくとしたら(実際にもどんどんそうなっているのだが)、きっと今後の日本語は抑揚を強調したりアタックを強くする喋り方が流行することになるだろうという予想など、かつて誰もできなかったものだったという説明で、十分だろう。
とのこと。
本記事では、この本のテーマの中核とはいえないかもしれないが、私個人にとって興味深かった点を2点記しておく。
まず、「アイウエオ」と発音する時、東京弁では「イ」「ウ」「オ」の音高が高くなるが、大阪弁及び東北弁では「エ」が高くなるということ。これは、大阪ことばを母語としながら、現在住んでいる東京における普段の会話では東京ことばを用いている私は、確かにそうだなと思ったが、東北弁と大阪弁の「アイウエオ」のイントネーションが似ているとは全く気づかなかった。ただ、首都圏で就職した最初の職場に東北出身者がいて、東北のことばと関西のことばに、イントネーションの上で妙な共通点があると感じたことを思い出したのだった。著者は東京弁がことばを舌先で発音するのに対し、大阪弁(や東北弁)はのど元で母音を響かせながら発音すると指摘しているが、試しに同じ文章を東京ことば風と大阪ことば風で発音してみると、なるほどその通りだなと思った。著者は山田耕筰作曲の『からたちの花』を例に挙げる。山田耕筰は、この歌の旋律を東京ことばの高低変化に即して作曲しているのだが、著者は、
大阪弁は、粘りある母音のなめらかな運動と共に、(中略)アクセントも柔らかく、音の幅が開いてきこえる。そして、開いた分だけ音域が広がり、もし「(からたちの花が=引用者註)さいたよ」が、大阪弁特有の「さいたわ」に変ると、全体の抑揚は優にオクターブに及ぶ。
と書いている*2。
これまた個人的な話で申し訳ないが、上京して大学に入り、東京ことばに日常的に接するようになって間もなく、関西のことばが東京のことばよりも「音域が広い」ことに気づいたものだった。小倉朗の岩波新書が出版されてから数年後のことである。たとえば、『忍者ハットリくん』というタイトルの藤子不二雄の漫画(アニメ)があるが、東京ことばでは「ハットリくん」を、「ハッ」がやや低く、「トリくん」は同じ高さで高く発音するはずだ。しかし、関西ことばでは「ハットリ」を高く、「くん」を低く発音する。しかも、東京ことばにおける「ハッ」と「トリくん」の音高さ(音程)よりも、関西ことばにおける「ハットリ」と「くん」の音高差の方が大きいのである。これは、この作品のアニメを見ていて気づいたことだが、当時私はピアノで関西弁の「ハットリくん」の発音を模して、「くん」を「ハットリ」よりも1オクターブ低い音で弾いて、同じ関西からの上京者のウケをとったことがあった。こんな思い出があるから、小倉朗氏の「(大阪弁では)全体の抑揚は優にオクターブに及ぶ」という指摘には、わが意を得たりと快哉を叫んでしまった(笑)。
もう一つ面白かったのは、沖縄と奄美群島の音階の話。著者は、「音階もまた訛る」として、
民謡研究家、久保けんおの記述を紹介すると、鹿児島の徳之島以北の旋法と、沖縄の沖永良部以南の旋法が違う。前者、北部圏は陽旋系、後者、南部圏は琉旋系。これを耳の立場からいえば、前者が本州の旋法と同類にきこえ、後者はまさに琉球特有の旋法にきこえるわけである。
と書いている*3。著者は「沖縄の沖永良部」と書くが、沖永良部島は鹿児島県大島郡に属し、行政区分では奄美群島に区分されている。しかし、文化(音楽)上は奄美ではなく琉球に属するようだ。
本書には、おそらく久保けんお氏の著作からの引用だろうが、同じ「いさへんよ」で始まる民謡の譜例が載っていて、琉球民謡にはシャープ4つ(ホ長調)、徳之島の民謡にはシャープ1つ(ホ短調)の調号が付されている。しかし実際には長調、短調というよりは、同じ音の高低変化(旋律)を、異なる五音音階の旋法(著者の言葉を引用すれば琉旋系と陽旋系)に当てはめていると言うべきだろう。
思い出したのは、兵庫県と岡山県、三重県と愛知県のそれぞれの県境で、話言葉が京阪式アクセントから東京式アクセントにガラリと変わる現象だった。関東在住の方は、岡山や広島など中国地方のことばのアクセントが「東京式」だと言われると意外に思われるかもしれないが、事実である*4。このアクセントの変化は、鈍行列車で旅をしながら実地で確かめていたことだが、同様のことが民謡の音階にも当てはまるらしいことが興味深かった。
ところで、リンクを張った上記『Living, Loving, Thinking』の記事によると、三浦雅士氏が
現代音楽に欠けているのは旋律の研究である。そして旋律は、いうまでもなく、言語の抑揚、つまり語り話される各国語のその言葉の音楽にかかわっている。これは歴史的なものであって抽象化を拒むものなのだ。つまり、現代音楽に欠けているのは、国語の研究、各国語の研究なのである。たとえば、語尾母音の多いイタリア語がオペラに、語尾子音の多い英語がロックにふさわしいように聴こえるのは経験的な事実だが、それが音楽的に何を意味するのか、とりわけ音楽の歴史においてどのような意味を持つのか、音楽家はほとんど関心がないようだ。
などと書いているそうだが、「まさか」の一語に尽きる。小倉朗や山田耕筰ならずとも、言語と音楽の関係には音楽家は昔から過剰なまでに自覚的であり、それを作品に反映してきたはずだ。そんなこと当たり前じゃん、と思ってしまった。