kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(下)

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(上) - kojitakenの日記 の続き。前回は上巻について書いたが、その後下巻を読んだ。



巻末の「訳者あとがき」から引用する。

 著者のナオミ・クラインが本書で徹底して批判するのは、シカゴ大学の経済学者ミルトン・フリードマン(一九七六年にノーベル経済学賞受賞)と彼の率いたシカゴ学派の影響のもと、一九七〇年代から三〇年以上にわたって南米を皮切りに世界各国で行われてきた「反革命」運動である。言い換えればそれは、社会福祉政策を重視し政府の介入を是認するケインズ主義に反対し、いっさいの規制や介入を排して自由市場のメカニズムに任せればおのずから均衡状態が生まれるという考えに基づく「改革」運動であり、その手法をクラインは「ショック・ドクトリン」と名づける。「現実の、あるいはそう受けとめられた危機のみが真の変革をもたらす」というフリードマン自身の言葉に象徴されるように、シカゴ学派の経済学者たちは、ある社会が政変や自然災害などの「危機」に見舞われ、人々が「ショック」状態に陥ってなんの抵抗もできなくなったときこそが、自分たちの信じる市場原理主義に基づく経済政策を導入するチャンスだと捉え、それを世界各地で実践してきたというのである。

(中略)

 フリードマンが提唱した過激なまでの自由市場経済市場原理主義新自由主義などとも呼ばれ、徹底した民営化と規制撤廃自由貿易、福祉や医療などの社会支出の削減を柱とする。こうした経済政策は大企業や多国籍企業、投資家の利害と密接に結びつくものであり、貧富の格差拡大や、テロ攻撃を含む社会的緊張の増大につながる悪しきイデオロギーだというのがクラインの立場である。自由市場改革を目論む側にとってはまたとない好機となるのが、社会を危機に陥れる壊滅的な出来事であることから、クラインは危機を利用して急進的な自由市場改革を推進する行為を「ディザスター・キャピタリズム」と呼んでいる。これまでこの語は「災害資本主義」と訳されることが多かったが、「ディザスター」は自然災害だけではなく人為的な戦争やクーデターも含む語であることを踏まえ、より意味を鮮明にするために、本書では「惨事便乗型資本主義」と訳した。

ナオミ・クライン著、幾島幸子・村上由見子訳『ショック・ドクトリン』(岩波書店,2011)下巻683-684頁*1=幾島幸子氏による「訳者あとがき」より)


アマゾンのカスタマーレビューを見ると、

やっていることは、ただの火事場泥棒ではないか?

と書いている人がいたが、その通りである。但し、1973年の9.11(ピノチェトによるチリのクーデター)やイラク戦争のように、火事場泥棒が放火の犯人でもある場合もあるということだ。

但し、一部の「小沢信者」や「ユダヤ陰謀論者」どもが執着する「(2001年の)9.11自作自演説」には著者は(触れてはいるものの)取り合っていない。それどころか、武田邦彦やそのエピゴーネンたち、つまり「地球温暖化陰謀論者」が怒り狂いそうなことが書かれている。

「訳者あとがき」からの引用を続ける。

 ショック・ドクトリンが実際に適用された例として、クラインはピノチェト将軍によるチリのクーデターをはじめとする七〇年代のラテンアメリカ諸国から、イギリスのサッチャー政権、ポーランドの「連帯」、中国の天安門事件アパルトヘイト後の南アフリカソ連崩壊、アジア経済危機、9.11後のアメリカとイラク戦争スマトラ津波、ハリケーンカトリーナ、セキュリティー国家としてのイスラエル……と過去三五年の現代史を総なめにするごとく、広範囲にわたるケースを検証していく。綿密かつ豊富な取材と調査に基づいて、これまで主として政治的な文脈でしか語られてこなかったさまざまな事件の裏に、ショック・ドクトリンと惨事便乗型資本主義という明確な一本の糸が通っていることを、クラインは切れ味鋭い筆鋒で次々に暴いていく。自由と民主主義という美名のもとに語られてきた「復興」や「改革」や「グローバリゼーション」の裏に、人々を拷問にかけるに等しい暴力的なショック療法が存在していたことが臨場感あふれる筆致で語られており、読者を慄然とさせずにはおかない。

(本書685頁)


上記のうち、下巻では、上巻からまたがる「ソ連崩壊」(の後半)以降が取り上げられている。正直言って、下巻には上巻ほどのインパクトはなかった。それは、下巻の中心的トピックである「9.11後のアメリカとイラク戦争」に関するブッシュ(ドラ息子)時代のアメリカの悪行及びグローバル資本主義の弊害は、今では広く知られているために、意外性に乏しかったからだ。

私はこの上下巻を購入したのではなく、図書館で借りて読んだのだが、発行されてから2年あまりしか経たない本なのに、上巻はかなり読み込まれた形跡があった。それに対し、下巻は上巻とは比較にならないほどきれいだった。このことからも、本書で特にインパクトは強いのは上巻であることがうかがわれる。

イラクにおけるアメリカの「復興」政策は、第2次大戦後のドイツや日本に対するそれとは大きく異なっていた。著者は、これをトルーマン大統領時代の「マーシャル・プラン」と対比して「反マーシャル・プラン」と呼んでいる。民主党トルーマン大統領はニューディール政策を取り入れたルーズベルト大統領の後継者だったのに対し、共和党政権のブッシュ(ドラ息子)時代のアメリカはフリードマン主義にどっぷり漬かっていたから、両者が対照的であったのも当然だろう。

また、現代アメリカのフリードマン主義が極限まで追及された例として、著者はアトランタ近郊のサンディ・スプリングスを挙げている。「アトランタ市の税金が貧乏人のために使われているのは怪しからん」とばかりに富裕層の反乱によって作られたこの市には、市の正規職員はたった4人しかおらず、他はすべて契約事業者の社員でなされているという。市政まで私営化*2されているのである。しかし、検索語「サンディ・スプリングス」でネット検索をかけると、同市を評価する立場に立つと見られるサイトがいくつか見つかった。そのうち2つにリンクを張っておく。


「訳者あとがき」の最後の部分を引用する。

 翻って今年*3の三月一一日、東日本大震災とそれに伴う津波および福島第一原発事故という未曾有の「ディザスター」に見舞われた日本にとっても、本書の内容は重くのしかかる。壊滅的な被害をこうむった東北地方の沿岸部と原発事故による広範囲にわたる放射能汚染に対し、復興・再建はいったいどのような道筋をたどってなされるべきなのか。同じ自然災害でも、アジアの津波やハリケーンカトリーナの際のようなあからさまな惨事便乗型経済の発動は今のところ伝えられていないものの、復興の名を借りて住民無視・財源優先の政策を打ち出す自治体も出てきており、予断を許さない状況である。ショック・ドクトリンの導入が行われないよう、私たち市民は心して目を光らせていく必要があろう。

(本書685頁)


具体的に「復興の名を借りて住民無視・財源優先の政策を打ち出す自治体」として批判されているとして直ちに思い起こされるのは、宮城県村井嘉浩知事)であろう。また、訳者は「アジアの津波やハリケーンカトリーナの際のようなあからさまな惨事便乗型経済の発動は今のところ伝えられていない」と書いてはいるが、昨日の日記で紹介した菅内閣内閣官房参与松本健一が出した「復興試案」のうち、「海辺の住民を高台に待避させ、漁港へは高台から通ってもらう」とか「岩手・宮城・福島の三県に、5〜10万人規模の、酪農をふくむエコ・田園都市をつくる」などというのは、あからさまかどうかは別として「惨事便乗型経済の発動」の匂いがする。人によっては、松本健一が早々と打ち出し、4か月後には菅政権が打ち出した「脱原発(依存)」だって「惨事便乗型経済」ではないかと言うかもしれないが、あれは原発の導入自体が間違っていたと私は考える。また、子ども時代に阪神間に住んでいた私が、阪神大震災(1995年)の翌年に被災地を訪れた時に見たことをふまえて言えば、阪神大震災の被災地において「惨事便乗型経済」が発動されたことは明らかだ。

本書の終章は「ショックからの覚醒」と題されており、最初に「ショック・ドクトリン」の被害をこうむったラテンアメリカ諸国がショックから覚醒して立ち直るさまが描かれている。しかし、先の東京都知事選で「リベラル」たちの多くが小泉純一郎に靡いたていたらくを見るにつけ、日本にもそんな日がくるとは想像できないのであった。

*1:この本には、上下巻を通算した頁番号が振られている。

*2:一般的には「民営化」と表記され、本書もその例外ではないが、この語は英語では "privatization" なのであるから、当然「私営化」と表記されるべきであろう。

*3:2011年=引用者註