kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

フリードマン主義全盛の現在、「徴兵制」なんかにリアリティは全くない。安心せよ、リッチな「リベラル」たちよ

https://twitter.com/mtcedar1972/status/494658089723764739

杉山真大@震災被災者@mtcedar1972

徴兵制ガーと騒ぐ以上に、「成長戦略」でハイテク化された自衛隊周辺諸国との対立の原因に、って方が現実的なのに、「リベラル」「左派」にはこの点危機感に欠けているよね>安倍政権の「成長戦略」は百害あって一利なし(id:kojitaken) http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20140731/1406765170

最近の「リベラル」たちの言説にはとんと疎いのですが、彼らは安倍内閣の「集団的自衛権の政府解釈変更」の閣議決定で「徴兵制ガー」などと騒いでるんですか。

そうだとしたら時代後れもいいところ。

あの「小沢信者」の伝道師であらせられる植草一秀センセも信奉する*1ミルトン・フリードマンの経済理論が全盛の現在、「徴兵制」なんかにリアリティは全くありませんから、リッチな「リベラル」たちよ、心配ご無用ですぜ。

念のために当ダイアリーで「徴兵制」を検索語にして日記内検索をかけたところ、5件しか見つからなかった*2。しかも一番新しいのは2008年2月8日の記事*3で、「きまぐれな日々」に私自身が書いた記事*4から、

徴兵制などの極右的発言を繰り返している東国原

と引用しているだけだ。他の4件のうち1件*5も同じく、東国原英夫が徴兵制の発言をしたことに軽く触れたもの。さらに2007年12月24日の記事*6には、

なにしろ橋下は、核武装や徴兵制を唱え、高齢者予算削減を主張する、ウルトラ右翼にして新自由主義者である。

と書いていた。しかし、新自由主義者橋下徹が「徴兵制」を唱えていたとは、後述のフリードマンの教えに大きく反する間抜けな発言だったと言わざるを得ない。

さらに2007年6月3日の記事*7では、森永卓郎

なぜそこまでして秋学期入学にこだわるのかといえば、徴兵制度導入の準備ではないか。秋までの期間は軍事訓練をするのにちょうどいい。

と書いていた*8ことを紹介している。

一番古いのが、当ダイアリーが「4万アクセス」を記録した2006年11月13日の記事*9で、立花隆が、当時も首相だった安倍晋三が執念を燃やしていた教育基本法の「改正」について、

隠された争点は、個人が上位にあるのはけしからんということ。公共心とは、国が決めたことを守れということだ。将来徴兵制ができて、また戦争に行きなさいとなったとき、米国のような良心的忌避の権利が認められるだろうか。日本人のマインドには、何もかもお上が決めたら従えという全体主義の傾向がある。

と書いていたことを紹介している*10

しかし、2008年2月8日を最後に、もう6年以上も当ダイアリーに「徴兵制」の文字列は、私自身が書いた文章はもちろん、引用文中にも出てこなかった。本記事で、実に6年半ぶりに「徴兵制」の文字列が復活するのだ。今になってみれば、立花隆森永卓郎も橋下も東国原も、みんなずいぶん感覚が古かったんだなあと思う。

さて、長い前振りはここまで。ようやくミルトン・フリードマンの主張を紹介するところまで来た。以下、西谷修一氏のブログ記事を引用する。

http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/gsl/2013/01/post_180.html(2013年1月24日)

M・フリードマンと徴兵制廃止

 もうひとつ中山さんの本から、経済学理論がたんに経済の話にとどまるものではなく、強力な組織作用を伴うという典型例を――

 この本のなかでとりわけ注意を引いたのは、ミルトン・フリードマンの台頭にアメリカの徴兵制廃止が絡んでいたというくだりである。

 フリードマンはもともと主著『資本主義と自由』(1962) のなかで政府がやる必要もない項目リストに「平時の徴兵制」があげていたが、ベトナム戦争がしだいに激化し、アメリカの若者の間で反戦運動が高揚して徴兵忌避の機運も広まるなか、フリードマンは志願兵でいいじゃないか、という提言をして若者たちに支持されたという。

 この提言はニクソン大統領の採用するところとなり、結局アメリカでは一九七三年に徴兵制が廃止される。もちろん、軍からは大きな反発があった。参謀総長のウェストモーランドは「金目当てで集まった傭兵の指揮などしたくない」と抵抗したが、フリードマンは「志願兵がどうして無理やり連れてこられた奴隷の兵士より役立たないというのか」とやり込めたそうだ。

 このエピソードはフリードマンの考えの典型を示しているというにとどまらず、その後の国家と戦争のあり方を考えるうえでもなかなかに意味深い。
 
 もともと徴兵制は、ナショナリズムを統合原理とする近代国民国家の制度的根幹にある。国民が義務として国を守るということだ。兵役に就くのは国への奉仕であり、国民の義務だとされてきた。この徴兵制を廃止し、志願兵(あるいはリクルート兵)で間に合わせるということは、軍隊を他の職業と同じ選択肢として扱うことを前提にしており、この「職業」を他とひとしなみの「選択の自由」に委ねるということだ。だから、軍隊が魅力的な「職場」であれば、志願者に事欠くことはないというわけだ。

 もともと、国民軍の主力は志願兵だった。そして志願兵は自分がなぜ戦うかを知っており、納得ずくで進んで危険に身をさらす。だから、ナポレオン軍は当時の傭兵からなる他国の軍隊を蹴散らしてヨーロッパを席捲し、その強さを分析することからクラウゼヴィッツに『戦争論』を書かせることになったわけだ。

 ただ、そのときの「志願」の動機は、「自由か、しからずんば死か」という、フランス革命後の民衆の「自由=フランス」への愛国心だった。そしてそれがやがて国民皆兵へと制度化され、近代国民国家の軍隊に編成されてゆく。

 ところが、兵役への同意が空洞化する一方で、ベトナム戦争のような大義が疑われる戦争の場合には、国民的合意が崩れて徴兵制度が破たんし始める。そのときにフリードマンは、そんな戦争はやめようと言うのではなく、やりたい(いやじゃない)者だけ集めてやればいい、と提言する。そしてそれを「志願兵」と言うのだが、実はそれはナポレオン軍の前に潰走した「傭兵」の方に近い。「志願兵」は戦うことを志願してくるが、「傭兵」は働き口を求めて集まる(フリードマンはその点をごまかして、ウェストモーランドをうまくやりこめた)。

 フリードマンは「自由」を導入すると言い、多くの若者がこれを支持したというが、ここにはいくつもの論点がある。

 兵士を集めるのに国民の義務や強制は必要ない。軍隊に職を求める者を集めればよい。人は適性や意欲に応じてこの職業を選ぶ。軍の方では、この職業をできるだけ魅力的なものにするように意を尽くす(沖縄やディエゴ・ガルシアのリゾートetc.)。

 その職務内容は、戦争で戦うこととその訓練などだが、その行為から「お国のため」という論理は外れる。それは好きで選んだ職業なのだから。ということは、フリードマンは戦争のナショナリズムを解体したことになる。戦争は国民の義務ではなく、好きな者が戦争をやればよい、ということだ。軍隊というのも、国家に必要な機構ではあるとしても、それに暴力装置という機能以外の意味はなくなる。少なくともフリードマンの考えではそうだ。

 徴兵制廃止と兵士のリクルートは、その後に顕著になる軍のアウトソーシングや軍事の「民営化」の端緒でもある。軍隊の維持、とりわけその基礎である「人材」部門に「民間活力」を導入し、「選択の自由」という市場の原理をもちこんだのだ。

 兵士のリクルート制は、必要に応じて採用を伸縮できるし、人材派遣会社を間において徴募をさらに柔軟にすることもできる。そして何より、労働市場の事情を最大限活用することができる(つまり不景気や貧民層の増大で、人集めは容易になる)。

 それは経営効率上も、合理性の観点からも「適合的」だろうが、軍隊の仕事は特殊である。破壊、殺人、強奪etc.と、なにひとつ「生産」には寄与しないばかりか、熟練者を育てると、社会に対するネガティヴ効果も大きい。事実、軍は下層の求職者や犯罪常習者の吹き溜まりになる(イラクの米軍を扱ったブランアン・デ・パルマの映画『リダクティッド』が示していたように)。あるいは、この職種の「ホワイトカラー」層は、毎日アメリカ国内の基地に出勤し、そこから無人爆撃機を指令して意図なき破壊と殺人の仕事をこなすサラリーマンになる。

 結局、「自由」は分断する。関係を断つ。戦争をするという国家の専権事項だったものをも分解し、機能的なセクターの組み合わせに解体する。いま、それをつなぎとめるのは「最適化」だけを求める「マネージメント」であり、そこに覆いかぶさるのは、メディアで流布される「テロとの戦争」とか「領土問題」とかいった粗雑な物語だけである。


記事の最初に言及されている「中山さんの本」とは、下記の平凡社新書である。



この本は私も読んだ。未公開の読書記録を参照すると、昨年1月27日に読み終えている。その頃はまだ、中山智香子氏が著書で論じているフリードマンガルブレイスも読んだことがなかったが、その後読んだ。


資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)


ゆたかな社会 決定版 (岩波現代文庫)

ゆたかな社会 決定版 (岩波現代文庫)


満足の文化 (ちくま学芸文庫)

満足の文化 (ちくま学芸文庫)


今や、裕福な家庭に育った者がわざわざ軍隊に行かなくても良い時代になったのだ。前世紀前半の戦争においては、日本の裕福な家庭に育った若者にも「赤紙」が来たが、仮に今後、日本国憲法が改定(=明文改憲)されて自衛隊が「国防軍」になったとしても、徴兵制は決して実現しない。だから、東京の中央線沿線(武蔵野市など)とか鎌倉とか、関西なら阪神間(芦屋市や西宮市など)や神戸市東部などに住むリッチな「リベラル」の人々は、徴兵制の心配をする必要など全くないのである。新自由主義全盛の現代は、昔よりももっと酷薄きわまりない時代だ。「徴兵制」のごとき、富裕層(というよりガルブレイスが晩年の著書『満足の文化』で書いたところの「満足せる人々」)に不人気な政策など、今後誰が総理大臣になろうが、どの党が政権与党になろうが、間違っても採用されない。だから「徴兵制」は絶対に現実のものとはならない。現在でさえ、自衛隊がどういう階層から労働力(戦力)をリクルートしているかを考えれば、そんなことは自明だろう。

未だに徴兵制についてピーチクパーチクやっているお花畑のていたらくでは、「リベラル」に未来などない。いくらリアリティのない仮定の話に内輪だけで花を咲かせても、誰もついて来ず、自分たちの勢力は拡大できない。いま心配し、議論しなければならないことは徴兵制なんかじゃないのだ。