kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「緩慢な徴兵制」では意味がぼやける。人命の重さの不平等化が問題。

「徴兵制」を不要にした小泉純一郎を讃えよ! - kojitakenの日記(2014年8月12日)のコメント欄より。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20140812/1407802114#c1407855502

id:yoinotsubasa 2014/08/12 23:58
久しぶりにコメントさせていただきます。
言葉を論うつもりは全く無いことをご承知おきください。
ブログ主様が仰る「徴兵制」は、国家が国民に課す義務で、強制的な制度と捉えておられるのでしょう。
しかし、貧困・ワーキングプアの立場で、それら、自衛隊、福一での労働を選ばざるを得ない人々にとっては「自発的」とはいえ、誰もが他に選択肢が思いつかなかったとなれば、これは緩慢な徴兵制ではないかと思うのです。
むしろ、もっと薄暗い「防人」などを想像してしまいます。

「『徴兵制』は、国家が国民に課す義務で、強制的な制度と捉えて」いるというのはその通りです。

「貧困・ワーキングプアの立場で、それら、自衛隊、福一での労働を選ばざるを得ない人々にとっては『自発的』とはいえ、誰もが他に選択肢が思いつかなかった」という部分については、自衛隊(将来は「国防軍」かも)や「1F(東電福島第一原発)」*1での労働を「選ばざるを得ない」というより、他の仕事と比較して高い賃金に釣られて、背に腹は代えられずその職を選んでしまうという意味です。

従って、「緩慢な徴兵制」という言い換えには感心しません。その表現では、文学的に過ぎて意味が曖昧なために誤解を招きやすく、私が言いたいことが伝わりません。主張がぼやけてしまいます。

当該記事で私が言っているのは、「かつての『貧乏人は麦を食え』に代わって、『貧乏人は戦争(か原発)に行け(貧乏人は戦場や被曝労働で死ね)』という世の中になっているぞ」という意味であって、そういう「身分制」ないし「階級社会」になりつつある現実の方が、(富裕層も反対するに決まっているから)実現の可能性の低い「徴兵制」なんかの心配よりもよりよっぽど問題だろ、と言っているわけです。

さらに書けば、能天気な「リッチなリベラル」たちが、お茶会(ティーパーティー)でケーキを食べながら内輪で「徴兵制反対」を言い合っているさまを想像しながら、彼らが格差や貧困の問題に無頓着であることを皮肉っています。現実には、ワーキング・プアたちの志願兵が十分集まるから、「リッチなリベラル」たちの子弟は兵役に召集なんかされっこありません。だから、彼らには「緩慢な徴兵制」は適用されません。

戦前はそうではありませんでした。

たとえば、最近(今年に入って)読んだ本に絡めて言えば、故斎藤茂太は大歌人にして戦争に協力した斎藤茂吉の長男、つまり上流階級の人でしたが、新婚3か月の時に兵役に召集されています。戦争になれば兵役に召集された兵士は平等で、命の重さは同じでした。

だから、つい数年前にも「希望は、戦争。」などというフレーズが一世を風靡したわけです。当時も、福島瑞穂のようなノーテンキな「リベラル」が反論してましたが、福島氏は的を外していると私は思っていました。

しかし、現在の日本は、(ワーキングプアの人たちが)「戦争」にさえ「希望」を持てないような、格差社会、階級社会になりつつあります。

もはや、人の命が平等ではなくなっています。それこそが問題だ。だからリベラルよ、そこを突け。そう私は言っているのです。

*1:申し訳ありませんが、「福一」「フクイチ」といった、脱原発派しか使わず、東電福島第一原発の作業員や地元の人たちが用いない言葉を私は好みません。