kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

下手なマルキストよりずっとラジカル。ガルブレイス晩年の著作『満足の文化』に驚く

薄い本だからさほどの時間をかけずに読めるが、その内容には驚いた。


満足の文化 (ちくま学芸文庫)

満足の文化 (ちくま学芸文庫)


一読してびっくり、下手なマルキストよりずっとラジカルなのだ。この本は1992年に出版され、邦訳は1993年に新潮社から出て、1998年に新潮文庫に収録された。しかしその後絶版になり、今年の5月にちくま学芸文庫から再発された。英語版の初版が出た1992年当時、著者ガルブレイスは84歳だった。ガルブレイスミルトン・フリードマンと同じ2006年に世を去ったが、長命だったフリードマン(享年94)よりさらに長生きで、97歳と6か月生きた。

驚くのは、元からリベラルだったガルブレイスが晩年になって尖鋭さを増していたことだ。

「下手なマルキストよりずっとラジカル」という感想が決して私だけの大げさな意見ではないことは、ガルブレイス最晩年の2004年に出版された『悪意なき欺瞞』を、コミュニストを自認する紙屋研究所が評論したブログ記事からもわかる。

J.K.ガルブレイス『悪意なき欺瞞』(2004年10月13日)より

(前略)
 本書(『悪意なき欺瞞』)は、新古典派を中心とした主流派経済学が描いてきた通説の「欺瞞」を、中心点にねらいを定めた簡潔なことばで射抜く。一種のエッセイといってよいものだから、厳密な経済学的証明は一切ない。ただ、言われた方は身に覚えがあることだろうと思う。
 わずか150ページたらず。すぐ読めるが、ガルブレイスの「エッセンスを凝縮」(オビ)というだけあって、スケールはでかい。
 

 ここで批判されるのは、次のような通説である。

「市場システムの社会では主権者は消費者である」
「販促や広告ではなく、需給曲線こそが消費者主権の真理を表現する」
「労働は苦労ではなく喜びである」
「政府組織は官僚制が支配するが民間企業ではそんなことはあり得ない」
企業統治は株主が主権をもっている」
「官と民があり、両者はその区分をめぐって争っている」
エコノミストは経済の将来を予測する」
中央銀行はインフレや不況退治のために実効ある金融政策をうちだす」

などなどである。
 これ以外にも、いくつかの通説の「欺瞞」が暴かれる。

 ガルブレイスはこの本をマルクスの名もあげて、「『資本主義』という死語」から始める。
 いまの経済システムを「資本主義」という歴史的特殊性からとらえる見地が、その言葉を「死語」にせしめ、かわりに「市場システム」と言い換えることにより、完全に欠落していき、経済システム把握はきわめて平板なものになってしまう。

「市場システムという言葉が『思いやりのある資本主義』という意味に解されるようになったのは、法人が現にやっていること、すなわち生産者が消費者の需要を支配し、都合のいいように操作している、という現実を覆い隠すために、資本主義に市場システムという、見てくれのいい変装を施したことに由来するのである」

 また、次のようにものべる。

「かつて日常的に用いられていた『独占資本主義』という言葉は、学術論文からも政治的文書からも姿を消してしまった。いまや消費者は独占資本の支配下にあるのではなくして、彼/彼女は主権者なのだから――実のところはそうではないにせよ――と、教科書にはそう書かれているのである」

 公正な市場により、消費者は自由な選択をし適切な資源配分を受けている――これが新古典派の描く経済像であるが、実際には、「生産者」すなわち企業、とりわけ独占資本という大企業が支配を強いている、というのが現実ではないか。マルクス主義のなかでは実に古典的ともいうべき当たり前の認識を、ガルブレイスはしっかりのべるのだ。

 だれもが、レーニンを思い出すだろう。
「自由競争は生産の集積を生み出し、この集積はまたその発展の特定の段階で独占をもたらす……支配関係とそれに結びついた強制の関係――これこそが『資本主義の発展における最新の局面』にとって典型的なものであり、これこそが、全能の経済的独占の形成から不可避的に発生せざるをえなかったものであり、また実際に発生したものである」(『帝国主義論』)

 いや、昨今のなよなよした一部のマルキストよりも、もっと直截にガルブレイスは次のようにのべる。

「よく考えてみれば、公的セクターと私的セクターを区別すること自体が、無意味なことのように思えてくる。なぜなら、いわゆる公的セクターの仕事の大部分、その根幹となる部分、そして拡張しつつある部分は、私的セクターを潤すことのみを、そのねらいとしているからである」

 政治は資本に奉仕するためにおこなわれている、というあけすけな表現。

 ぼくは、これこそがリアルそのものだと思う。
 新古典派がどのように粉飾しようが、目の前にはこうした事実が広がっているのであり、それを力強く断じる野蛮さというものが、むしろ10年前よりもはるかに「ウケる」中身なのだ。そういえば、山口二郎渡辺治政治学会で日本の左翼の現在について報告し「左派の綱領は10年前よりも高く売れる条件がある」といっていたのだが、まさにその通りであろう。亡くなってしまったが、青木雄二のようにあけっぴろげに「世の中ゼニや」と語ることが実はリアルだったりする。

 その解決策として、「市場を廃止して理性による一元的計画を」と唱えるのではなく、現状を不公正な「生産者の支配」だととらえたうえで、「公正な市場をどう構築するか」という課題の提出の仕方をするのであれば、マルキストは修正資本主義者たちとも手を組みながら前進をしていくことができる。


 なお、本書でいちばん「グッ」ときてしまったのは、「『労働』をめぐるパラドックス」の章である。「労働は喜びである」として、それをたたえるだけの言説を、ガルブレイスは批判する。

「一生懸命働く人は褒めたたえられる。しかし、称賛を口にするのは、褒められた人が味わったような労苦を免れた人、もしくは汗水たらすことを上手に回避できた人がほとんどである」

 はは、なるほど、と思う。
 関川夏央でさえ、新井英樹『宮本から君へ』を評した際に、「労働とはやむを得ざる苦役だという昨今流行の西欧型労働観を敢然と否定し、……労働のなかに自己実現をめざしたいという、日本独特の『危険な思想』が居直るときの、暑苦しいすがすがしさとでも呼ぶべきなにものかが、この作品にはある」(関川『知識的大衆諸君、これもマンガだ』)とのべた。少しわかりにくいが、関川自身は後者の労働観をとるものであろう。

 3割も給料をピンハネをされ、今日は北海道、明日は沖縄と飛ばされ、休みもとれずに体をこわしてしまった請負労働者たちに、ナイーブに「労働は喜びである」と誰が説教できるだろう。その軋みが鳴るほどの大量の苦役的労働の上に、「自己実現」可能な「労働」がうっすらと横たわっているにすぎない。

 ガルブレイスケインズを引用して次のように言う。

「しばしば辛らつな舌鋒をふるったジョン・メイナード・ケインズは、『労働は喜びである』という言説に対して疑問を呈した。ケインズは、高齢で亡くなったビルの掃除婦の墓碑に彫りこまれた次のような銘文を引用する。彼女は働き詰めの人生からようやくにして解放されたのである。

 友よ、私を哀悼することなかれ
 二度と涙を流さないでいてくれたまえ
 私はこれで何もしなくてよくなったのだから
 いつまでもいつまでも久しく」

私が読んだのとは違う本の書評を長々と引用したが、あまりによく書けているので短くできなかったのである。そして、上記の引用文で青字ボールドにしたくだりは、『満足の文化』にも出てくる。また、赤字ボールドの部分は、私が今日感じたこととそっくりである。それを紙屋研究所のブログは10年前(2004年)に書いていた。ちなみに、私が「なよなよしたマルキスト」として思い浮かべたのは、宇野経済学の最後の生き残りともいわれる伊藤誠である。以前当ダイアリーで批判したことがあると思うが、伊藤誠は小泉構造改革に期待して裏切られたことを、一昨年だか昨年だかに出した平凡社新書であけすけに告白していた。それを読んで、なんだ、マルキストなんてその程度かと呆れたのだが、本屋のマルクス経済学のコーナーに行くと、伊藤誠の著作集が堂々たる押し出しで並んでいる。この人がマルクス経済学の世界では大物の学者らしいと知って二度びっくりしたのだった。その他にマルキストの悪例といえば、元赤旗記者で今では社会新報などに寄稿しているトンデモ記者が思い浮かぶが、こいつに至ってはその名前さえ忘れてしまった(ネット検索して、ようやく今田真人という名前を確認できた)。数理マルクス経済学者の松尾匡氏は、今の日本のマルクス主義経済学者でまともなリベラル系識者として世に通用している人など誰もいないと批判していたと記憶するが、現在の「マル経」はそんなていたらくなのである。

それはともかく、リカードマルサスを正面切って批判するガルブレイスの文章を読んでいて、リカードの労働価値説をベースにしつつそれを批判して剰余価値説を提示したマルクスを思い出した。そして、現代日本の腑抜けなマルキストたちと比較して、間違ってもマルキストではなく、ケインズの影響を受けたと思われるガルブレイスの方がずっとラジカルであることに感心するのである。

これだけではなんなので、本書について少し書いておくと、『満足の文化』というタイトルは反語である。経済学者や政府の経済政策が、今や少数の資本家に限らず(アメリカにおいて)多数派を形成しつつある「満足せる人々」に奉仕していることを痛烈に諷刺し、批判している本といえる。

本書は、既に新潮社版ハードカバーや新潮文庫として出ていたこともあって、多数のレビューがネットで拾える。その中からピックアップして引用する。

J.K.ガルブレイス『満足の文化』新潮文庫、1998年5月 - alpha_c’s blog[読書] より

■内容

  • 満足せる人々は今や多数派となった。そしてこの特権層は自らの特権を侵略しようとするものには精力的に対抗する。
  • この満足社会は、少数の厳しい労働を行う人々によって支えられている。これは外国人労働者であることも多い。
  • 金融業界は、中央銀行の積極的な政策に満足している。満足の文化においては、つまるところ、失業よりもインフレの方が恐ろしいのである。このため金融業界はインフレの防止を重視し、インフレ率を超える利子率を支持する。そして高金利は満足せる人々の多くに収入をもたらす。
  • 満足せる人々に奉仕するためには、まず政府介入をできるだけ行わない教義が必要であり、これはリカードマルサス、スペンサーなどである。次いで、限りなく富を追求することについての正当性である。さらに貧しい人々に対する責任感を弱めることである。
  • そうした人々にスミスが支持されるが、本来スミスは優れたプラグマティストであり、国家の必要性と有益な役割を認めていた。スミスは国家が貿易に関与することについては反対し、利己心による自由貿易が必要と考えていたが、一方で株式会社に対して懐疑的であった。
  • 1980年代の大々的な投機活動の陰鬱な顛末は当事者以外の人間にとっても極めて明瞭である。このような事態は、時宜を得た責任ある規制活動があれば避けられたはずである。
  • 社会的援助に頼らざるを得ない下層階級の悲惨な現状は、最も重大な社会問題である。大都市の生活環境改善は、公的な活動によってのみ可能である。良い学校、福祉、職業訓練、貧困者住宅、健康管理、レジャー施設、図書館、警察は欠かせない。
  • 仕事は、紋切り型の定義からすれば、楽しくかつ報酬を伴うものである。しかし、実際には、繰り返し作業だけで退屈な、苦痛や疲れを伴う、精神的刺激もなく社会的品位のない仕事が多い。こうしたことは、さまざまな消費者サービス、家事サービス、農産業の収穫作業に当てはまる。
  • アメリカの諸都市では、下層階級の社会的無秩序が問題となっているが、これは大都市の工業が移転したことによる失業の問題が密接に関係している。また下層階級のより上の階級への流動性も低くなっている。
  • 経営者たちは、所有者や株主たちより多くの実権を握っている。しかし、それが昂じてしだいに自分の報酬を最大化させることとなった。
  • 組織の上層部では、問題に取り組むのでなく委任する、より厳密にいえば押し付けることが要求される。面倒なことを実行するのは他人である。
  • 景気後退時、政府の財政政策と金融政策が期待されるが、とりわけ満足せる人々が期待するのは金融政策である。インフレと失業ということでいえば、満足の文化においてはインフレの方がより恐れられている。
  • 満足せる人々に奉仕するためには必要な条件が三つあり、一つは政府介入の制限、二つは限りなく富を所有することの正当性を見いだすこと、三つは貧しい人々への責任感を弱めることである。
  • 満足せる人々の経済学の代表者としてはアダム・スミスがあげられるが、スミスは実際は優れたプラグマティストであり、国家の必要性と役割を認めていた。

感心するのは、22年前のガルブレイス晩年の著作が、現在の日本に実によく当てはまっていることである。その意味で私が思い出したのは、日本における数理マルクス経済学の試みの先駆者ともされる(マルキストがいうところの「近代経済学者」の)森嶋通夫であった。森嶋晩年の著作『なぜ日本は没落するか』は、やはり現在の日本をものの見事に言い当てているのである。

上記引用文中では、特に赤字ボールドの部分に注目したい。たとえば、なぜ安倍晋三石原慎太郎といった、右翼民族主義者から期待されている人たちが、「外国人労働者の導入」を唱えるかという理由も、それが「満足の文化」にかなう政策だからである。

また、インフレとは「満足の文化」(というか富裕層)の大敵である。裏を返せば、デフレは「満足の文化」との親和性が高いといえる。それは、デフレになれば「持てる者」の資産の価値が上がることを考えれば当然のことである。そのことを考えれば、安倍政権が採用した「インフレターゲット」はリベラルな政治勢力こそ先取りすべき政策だった。ところが左翼政党(共産・社民)も生活の党も民主党朝日新聞毎日新聞もインフレを嫌い、インフレターゲットに反対した。これは大間違いであったと私は思う。

但し、私が繰り返し批判しているように、安倍政権は富の再分配には全く不熱心である。再分配が「満足の文化」にとって全く好まれない政策であることはいうまでもない。金融緩和・インフレターゲットと並んで再分配の必要性を主張しているのは、スティグリッツクルーグマンなどのアメリカのリベラル派の学者だが、彼らの主張するような方向の政策をとれば、日本経済も上向く可能性があるのではないかと私は思っている。

また、上記の要点の列挙からは漏れているが、「満足の文化」が減税政策を好むことは、本書に繰り返し指摘されている。ここでも日本の政治に思いを致せば、私が「経済極右」として繰り返し執拗に批判してきた河村たかしの「減税日本」を支援したのは小沢一郎一派だった。つまり小沢一派もまた「経済極右」に加担してきたわけだが、そんな「減税日本」の地方選での勝利を、「『庶民革命』が成就した」などと言って気勢を上げていた倒錯せる「リベラル」たちが日本には大勢いたのであった。むろん、現実に名古屋で起きたのは、富裕層を利して格差を拡大するためのクーデターに過ぎなかったのである。

最後に、ちくま学芸文庫版の『満足の文化』の装丁を担当された方のTwitterを引用する。
https://twitter.com/makiju/status/466468225266765824

牧 寿次郎
@makiju

J.K.ガルブレイス『満足の文化』の表紙をデザインしました。帯には「なぜ富裕層だけが富み続けるのか?」とあり、「異端の経済学者ガルブレイスによる現代の資本論」を若い人にぜひ読んでほしいとのことです。中村達也 訳。ちくま学芸文庫より pic.twitter.com/Y0OtIr3Ltv

「現代の資本論」にはちょっと違和感がある。ガルブレイスはやはりガルブレイスであろう。