kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

新自由主義者にして極右の平沼赳夫、訪米して「ティーパーティー」と意見交換へ(呆)

2009年の「政権交代」以前に、「喜八」*1なる「政権交代を求める」系のブロガーが、極右政治家である城内実平沼赳夫を応援し、それが狭い「政権交代ブログ界」において主流を占めていたことがある。「喜八」は、まともなことを書くこともあるが、基本的には民族主義志向のトンデモ、というよりもともとノンポリだったようだが人の意見にかぶれやすいたちらしく、その頃には事実上のブログ共同運営者であった、とある民族主義者の思想にかぶれていたようである。そんなことは人の勝手ではあるのだが、困ったことに「喜八」には「ブログ村内政治」に奔走する悪癖があった。もう時効だろうと思うから書くが(もっとも以前にも書いたことがあるかもしれない)、私がかつて運営に力を入れていたブログ「きまぐれな日々」に、「喜八」らともつきあいのあるブロガーがコメントしたあと(確か私に対する批判のコメントだったように思う)、ブログには反映されない非公開コメントで、「なんでkojitakenのブログにコメントなんかするんだ」と「喜八」らに叱られたとの情報をこっそり教えてくれたことがあった。このように「裏で暗躍する男」、それが「喜八」の正体である。

ともかくも、一時的に「喜八」の「城内実平沼赳夫推し」は「政権交代ブログ界」の公認を受けたのだが、その後、城内実自民党復党や平沼赳夫の「たちあがれ日本」参加などによって「喜八」らの主張が誤りであったことが証明された。つまり、「喜八」らは早くも歴史によって裁かれたのである。

平沼赳夫(や城内実)は「郵政民営化」に反対して2005年の郵政総選挙で自民党公認を受けられなかった。これをもって、平沼が「反新自由主義」の政治家であるとみなす向きが多かったが、私はそれにも反対し、サッチャーの教育改革に心酔する平沼赳夫は「新自由主義者である」と断定した。サッチャーの教育改革とは、国家主義新自由主義が綯い交ぜ(ないまぜ)になったものであって、教育の私営化(俗にいう「民営化」。英語では"privatization"だから、正しく「私営化」と訳されねばなるまい)の要素を強く含む。橋下徹がこれに飛びついたことは周知だが、平沼赳夫サッチャーに心酔している以上、「新自由主義者」とみなさなければならないと考えた(今も考えている)のである。

前振りが長くなったが、そんな平沼赳夫がまたも正体を露呈した。

http://mainichi.jp/select/news/20140822k0000m010119000c.html

次世代の党:「外国人生活保護は廃止」…保守色前面に

 石原慎太郎氏らが1日に旗揚げした次世代の党が早速、保守色を前面に押し立てて動き始めた。生活保護の給付対象から外国人を除外するための生活保護法改正案を秋の臨時国会に提出することを決めたほか、来月には平沼赳夫党首らが訪米し、保守強硬派「ティーパーティー(茶会)」関係者と意見交換する予定だ。

 生活保護法改正案の提出は、7月に最高裁が「永住外国人生活保護法の適用対象ではない」と初判断したことが理由だという。同法では保護の対象を「生活に困窮する国民」と定めているが、運用で外国人も支給対象にしている。改正案には、こうした運用を廃止する狙いがある。

 また、平沼氏や山田宏幹事長らは9月8〜12日の日程で米ワシントンとハワイ・ホノルルを訪問。ワシントンでは、政府機関を一部閉鎖に導くなど強硬派とされる「茶会」関係者と会談し、「米国の草の根保守の運動論」(山田氏)について話を聞く。ホノルルでは米太平洋軍司令部の幹部らと会談する予定で、山田氏は「臨時国会で、我が党らしさを打ち出していく」と話している。【葛西大博】

毎日新聞 2014年08月21日 22時10分(最終更新 08月21日 23時15分)

外国人の生活保護廃止もひどいが、ティーパーティーなんぞ、2010年頃には騒がれたけれども、今やすっかり下火で、米共和党内でも「お荷物」になっていると聞く。何よりティーパーティーとは、「1%(の富裕層)対99%」のうち「1%」の意見を政治に反映させようという政治勢力だ。

かつて、副島隆彦や中田安彦(「アルルの男」)が小沢一郎を「ティーパーティー」の思想を具現する政治家として担ごうとしたことがあるが、「小沢信者」は誰もそれを批判しなかった。名古屋市長の河村たかしもまた、「ティーパーティー」的な思想信条を持つ政治家であるが、「小沢信者」たちは河村をもてはやした。そんなことなども思い出される。だが、時を経て「小沢信者」ももはや絶滅危惧種となった。

そんな時代に、今さら「ティーパーティー」と意見交換しようなどとは、平沼赳夫石原慎太郎山田宏中田宏ら「前時代の党」のアナクロニズムはここに極まれりである。