kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

くたばれ『ネイチャー』、くたばれ『サイエンス』〜「商業誌」が科学界に垂れ流す害毒/続・村松秀『論文捏造』(中公新書ラクレ)を読む

ヤン・ヘンドリック・シェーンも小保方晴子も同じだった/村松秀『論文捏造』(中公新書ラクレ)を読む - kojitakenの日記(2014年8月22日)に書き忘れたことがあった。『ネイチャー』、『サイエンス』といった科学誌の問題点である。

高温超伝導に関するヤン・ヘンドリック・シェーンの研究の「追試に成功した」という研究者が現れたエピソードから話を始める。小保方晴子の「STAP細胞」でも一時、香港中文大学の研究者が「追試に成功した」という話があったから*1、これまた「そこまで同じかよ」と思わされた。香港中文大学と同様、「シェーンの追試に成功した」というのも誤りだった。そのくだりを、村松秀『論文捏造』(中公新書ラクレ,2006)から引用する。


論文捏造 (中公新書ラクレ)

論文捏造 (中公新書ラクレ)

 バトログの苦悩は想像に難くない。ところが、この直後、ちょっとしたアクシデントが起こる。

  働かなかった「自浄作用」

 そのアクシデントとは、なんと「シェーンの追試に成功した」という研究者が現れたことだった。谷垣がチューリヒを訪ねたその直後、アメリカ・インディアナポリスで開かれたアメリ物理学会の会議で、ある科学者から、シェーンの追試に成功した、という報告がなされたのである。それを報告したのはアメリカの著名な研究所であるロスアラモス研究所の科学者で、しかもかつてベル研究所に所属しバトログの愛弟子だった人物だった。

 そんなことが本当にありえるのか、といぶかしく見ていた研究者たちを尻目に、バトログはこの愛弟子と、某超一流科学雑誌の編集者とともに、インディアナポリスのレストランで祝杯を挙げた、という。バトログはものすごい喜びようだったらしい。

 だがすぐに、成功したはずの実験は間違いだったことが判明する。バトログは再び奈落の底へと突き落とされてしまった。

 ちなみに、「誤報」をしてしまった愛弟子に対しては、「彼も捏造に走ってしまったのか」と嘆いた関係者もいたほどである。すぐに実験上の間違いということがわかり彼の嫌疑は晴れたわけだが、すでにこの時点で一部の研究者たちには、シェーンへの疑念はかなり強くなっていたことにもなる。

 また、レストランでの祝宴に際して、某超一流科学ジャーナルの編集者が同席していた、というのは、事実ならば大きな問題である。この編集者は当然、シェーンに対する懸念を知っていたということになるからである。メディアの人間としての責務である取材や事実確認がなされていなかったわけだ。疑惑を把握する立場にありながら、何ら対策を講じていなかったジャーナルの無策が、ここからも浮き彫りになる。

村松秀『論文捏造』(中公新書ラクレ,2006) 113-114頁)

「某超一流科学雑誌」の実名は伏せられているが、イギリスの『ネイチャー』よりもアメリカの『サイエンス』である可能性が高いのではないかと思った。当時、『ネイチャー』と『サイエンス』は競ってシェーンの「論文」を掲載していたのである。また、シェーンの方も両方の雑誌に投稿し、発行部数も拮抗しているという両誌の競争心を煽りつつ、ともに味方につけていた。

ところで以前、「STAP細胞」の論文が『ネイチャー』に掲載された件について、『ネイチャー』の査読者(レフェリー)が笹井芳樹に名前負けしていたのではないかという憶測記事を書いたことがあるが、名前負けしていたのはレフェリー、つまり学者たちではなく、科学ジャーナルの編集者たちだったのではないか。そう思わせる興味深い記述が本書にあった。以下引用する。

  「レフェリー」から発せられていた警鐘

 ここで、科学論文の精査についての仕組みをお伝えしておかなければならない。
 実は論文は、ジャーナルの編集部だけでセレクトされ掲載が決まるわけではない。投稿された論文はまず、掲載の検討に値するものかどうか編集部の中で選別される。そうして絞り込まれた論文は、その分野に精通した何人かの専門家に送られる。彼らはレフェリーと呼ばれ、論文の審査を行う。誰がレフェリーを務めるのかは、公正を期すために非公開とされ、それは論文の著者に対してもまったく同様である。レフェリーは論文を熟読した上で、著者や編集部にいろいろと質問したり注文をつける。そして書かれた内容には本当に科学的に意味があるか、掲載に値するかどうかを判断する。このレフェリーによる審査を通過した論文だけが、最終的にジャーナルに掲載されることになるのである。

(中略)

 私たちは、実際にシェーンの論文のレフェリーを務めた人物への取材を試みた。そしてデンマークの首都・コペンハーゲンで、ついに1人の科学者に会うことに成功する。当時、デンマーク・リゾ国立研究所に在籍していたクラウス・ベッシュガード(現・コペンハーゲン大学教授)だ。有機物の超伝導で知られる大家の1人である。
 ベッシュガードがシェーンの論文のレフェリーを『ネイチャー』編集部から依頼されたのは2000年のことである。
「非常に興奮する論文でした。とても斬新であり、大変興味深い研究結果だったからです。読むのが嬉しかったですし、エキサイティングでした」
 が、読み進むうちに、問題にも気づいたという。シェーンの論文では有機物の上に酸化アルミの膜を載せる方法がはっきりしていなかった。これは実験の核心部分である。その記述がない点が大きな問題だと考えたのである。
 ベッシュガードは『ネイチャー』のような総合科学誌では誌面に限りがあるので、実験の細部が掲載できるような専門誌とは違うことはもちろん承知しているが、と前置きした上で、こう語った。
「しかし、論文中で詳述する努力は当然必要であるし、せめて補足資料で詳細を語るか、実験の細部まで完全に触れている別の論文を参考文献として挙げるか、どれかの手立てを講じるべきだと思います」
 そして、実際にその旨を『ネイチャー』編集部に伝えた。
「重要な発見を論文に載せる場合、どこの研究機関でも結果を再現できることが非常に大事です。今回のケースでも、有機物の上に酸化アルミの膜を載せるやり方を、もっとしっかり書くべきだと編集部に注文しました」
 シェーンの論文には見逃せない問題点がある。この懸念を晴らさない限り、科学的な論文としては認めがたい。ベッシュガードはそう編集部に通達したのである。それに対して、『ネイチャー』編集部はどう答えたのだろうか。
「特に返事はなく、数ヵ月のちに、論文は『ネイチャー』に掲載されました。内容は手直しされてはいましたが、私の要求にしっかり答えているとはとても言いがたいものでした」
 レフェリーの審査システムには何も問題はなかった、と答えた『ネイチャー』編集部。しかしベッシュガードの証言は、実際には編集部はレフェリーの科学的な疑問の声をきちんと受け止めていなかった、ということを示している。結果、捏造されたシェーンの論文はその後も次々と掲載されていくことになった。その背景には、こうした『ネイチャー』誌側の対応の不備があった、ということになる。
 実はベッシュガード以外にも、『ネイチャー』のレフェリーを務め、シェーンの論文の内容について編集部に疑念を示していたと語る研究者は他にもまだいる。しかし、捏造が発覚するときまで『ネイチャー』編集部で具体的な対策は講じられることはなかったのだった。
村松秀『論文捏造』(中公新書ラクレ,2006) 137-139頁)

著者らは『サイエンス』編集部も取材し、当時同誌の編集長を務めていたドナルド・ケネディから、

「私たちのところに、シェーンの論文に不正があると警告してきた科学者がいたのなら、教えてください。そんな警告を、私たちは一切もらってはいないのです」(同141頁)

という言葉を引き出している。そして、

ちなみに、筆者は取材の中で、『サイエンス』の編集者に対して非公式ながら疑念を呈した研究者がいたことを知っている。だがその編集者はシェーンを持ち上げるばかりで、話をまったく真剣に受け取ってくれなかったという。(同141-142頁)

と書いているのだ。

『ネイチャー』か『サイエンス』か。はたまた他の雑誌かはわからないが、科学ジャーナルの編集者が当事者の学者と祝杯をともにするような腐敗した間柄では、いくらレフェリーがまともに論文疑問点を指摘したところでそれは反映されないであろう。「STAP細胞」に関する論文の著者に笹井芳樹が名前を連ねるや、若山照彦小保方晴子らが『ネイチャー』からも『サイエンス』からも「再投稿不可」の厳しい評価を受けたと同じ実験結果をもとにした論文が、一転して受理されたが、このことも単に笹井芳樹の論文作成能力が優れていたという以前に、『ネイチャー』編集部が「笹井芳樹が著者に名を連ねているならOK」と判断した可能性もある。

著者は、『ネイチャー』と『サイエンス』を競わせたシェーンの巧みな戦略を指摘しながら『ネイチャー』、『サイエンス』両誌を厳しく批判する。以下再び長文の引用をする。

 また、シェーンは意図してかどうかは不明だが、『ネイチャー』誌と『サイエンス』誌に交互に論文を発表している。ある論文が『ネイチャー』に掲載されたら、その数ヵ月後には今度は『サイエンス』に別の論文が載る、といった具合だ。審査の時間がどれくらいかかっているのかにもよるので一概には言えないが、ともかくも、まるで両誌を競わせるような形で、投稿がなされていたのである。ジャーナル側も、話題になる論文をいち早く自分のところから出したいのは当然であろう。将来、シェーンがノーベル賞を取ったら、自分たちの雑誌に載った研究がノーベル賞につながった、とアピールすることもできる。加えて、この両誌は発行部数でもつねにライバル関係にある。商業誌としての意味合いも強い。売るためには、注目度の高い記事や論文が必須である。シェーンの論文は、まさにうってつけの存在だった。

(中略)

『ネイチャー』や『サイエンス』両誌などにシェーンの論文が次々と掲載されたことによって、数多くの世界の研究者たちは当然のごとく信頼に足る内容と考えて、その追試を行うことを決断したり、シェーンへの疑念を抱いても「あの超一流雑誌に掲載されたのだから」とその疑いを払拭しようとしたはずである。ジャーナルの門番としての責任は、きわめて重い。
 そもそも、『ネイチャー』や『サイエンス』といったトップジャーナルは、社会的な責任が非常に強い雑誌である。歴史的に権威があるからだけではない。掲載論文の近々2年間での引用比率を表す指標である「インパクト・ファクター」の値が両誌ともに高いことも、その有力な根拠となっている。よりたくさん引用されるのだから、科学界への影響もきわめて大きな、価値あるジャーナルと見なされるのである。しかし実際には、雑誌側が生き残りのためにインパクト・ファクターを重要視するあまり、内容よりもとにかくセンセーショナルな論文を求めたがり、チェックも緩いままに掲載してしまう傾向があるのではないか、と指摘する声もある。
 その一方で、こうした権威ある雑誌に論文が掲載されることは、科学者にとっても名誉であると同時に、非常に大きな実績として認知される。この実績は、実は科学界の中でももっとも重要な評価基準となっている。より魅力的なポストへとステップアップするのにも欠かせない。採用する側である研究施設側から見ると『ネイチャー』や『サイエンス』両誌に論文が掲載されたという事実は、きわめて大切な評価の目安になっているのだ。さらに、そうした実績は、国などから配布される公的な研究費の審査に際しても、大変重要な価値として認められることにもなる。
 つまり、超一流雑誌に掲載されれば、いわばそれが担保のように、次のポストや研究費獲得にもつながっていくわけである。今回の取材の結果わかったのは、その担保には、実はきちんとした科学的な裏付けがとられていなかった、ということだ。シェーンの事件は、超一流雑誌に対して私たちが抱いていた信頼や信用の失墜を招いただけではない。「雑誌に論文が掲載されることが実績となって評価が決まる」という、科学界で活動していくのに必須だったはずの、もっとも重要なシステムの根幹に、きわめて大きな欠陥があることを図らずも露呈させてしまったのである。
村松秀『論文捏造』(中公新書ラクレ,2006) 145-148頁)

著者の主張を一言でまとめると、『ネイチャー』や『サイエンス』の商業主義が、科学を損ねているといえようか。ここでも市場原理と科学との相性の悪さが露呈している。小保方晴子捏造事件(「STAP細胞」捏造事件)でも、この問題が露呈したように思われる。このような状況を改善する対策として、査読をダブル・ブラインド(投稿者名と査読者名が互いに通知されない審査方法)にする方法が考えられるが、編集者が商業主義に走る商業誌では、編集部自体が予断を持っているため、効果がないかも知れない。そもそもライバル誌がシングル・ブラインド(投稿者は査読者名を知らないが、査読者には投稿者名が知らされる審査方法)をとっているのに、自誌がダブル・ブラインドにすると、それだけ「売れる雑誌」を作るのに不利になるから、彼らが自発的にダブル・ブラインド方式を採用するとはまず想像できない。こう考えると、『ネイチャー』だの『サイエンス』だのといった商業誌の権威を剥奪するしか方法がなさそうな気がする。

実際、大科学者が商業誌のあり方を批判した例もある。たとえば、昨年(2013年)12月13日付の読売新聞にこんな記事が出ていた。

http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20131213-OYT1T00638.htm (注:リンク切れ)

セル、ネイチャー、サイエンスの3科学誌は商業主義…ノーベル受賞者が「絶縁」

 今年のノーベル生理学・医学賞を受賞した米カリフォルニア大バークレー校のランディ・シェックマン教授(64)が、世界的に有名な3大科学誌は商業主義的な体質で科学研究の現場をゆがめているとして、今後、3誌に論文を投稿しないとの考えを明らかにした。

 教授は9日、英ガーディアン紙に寄稿し、英ネイチャー、米サイエンス、米セルの3誌を批判した。研究者の多くは、評価が高まるとして、3誌への掲載を競うが、教授は「3誌は科学研究を奨励するよりも、ブランド力を高めて販売部数を増やすことに必死だ」と指摘した。

 その上で「人目を引いたり、物議を醸したりする論文を載せる傾向がある」との見方を示し、3誌が注目されやすい流行の研究分野を作り出すことで「その他の重要な分野がおろそかになる」と問題を提起した。

(2013年12月13日15時23分 読売新聞)

この記事を読んだ時、私は快哉を叫んだ。願わくばシェックマン教授の意見が科学界の主流にならんことを。

くたばれネイチャー、くたばれサイエンス。神宮球場で歌われる「東京音頭」の合いの手*2を思い出しながらこんなフレーズを思いついてしまった(笑)

*1:http://wired.jp/2014/04/02/stap-cell-theory-salvaged/

*2:オリジナルは「くたばれ読売」である(笑)。