kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

くたばれ「インパクトファクター」、くたばれ「科学の商品化」

杉晴夫『論文捏造はなぜ起きたのか?』(光文社新書)を読む - kojitakenの日記(2014年10月13日)は、何日も下書きを書いた、自分でも呆れるほど長い読書メモ。書くのに異様な時間とエネルギーを消耗し、そのせいで疲れがまだ取れないほどだが、あくまで自分のためにメモを残しておこうと割り切って思ってものだ。しかし、こんな記事でも読んで「はてなブックマーク」をつけて下さる方がおられるのに感謝する。そのブクマコメント。

shomotsubugyo 科学史 学問 大学行政 文科省 図書館情報学 文科省がバカなのは自明のこととしても、インパクトファクターがただの流行指数でしかないことは、もっと広く知られてもいいのではなかろうか。図書館情報学がめずらしく学問に与えた影響(負の)(σ^〜^) 2014/10/15


杉晴夫氏の著書から再掲する。


論文捏造はなぜ起きたのか? (光文社新書)

論文捏造はなぜ起きたのか? (光文社新書)

(5)権威ある学術雑誌『ネイチャー』の正体は商業主義


 『ネイチャー』の商業主義

 小保方氏らのSTAP細胞の発見を報ずる二編の論文が英国の『ネイチャー』誌に掲載された直後、理研の華々しい記者会見の席上での発表とともに、この偉業は一時賞賛につつまれた。
 ある著名なわが国の科学随筆執筆者はこの報に接して、「あの権威ある『ネイチャー』誌に、論文を二編も続けて発表するとは素晴らしい」「しかもSTAP細胞の歴史的発見は、論文中の『盤石の』実験事実によって支えられている」と、手放しで賞賛した。
 この当初の賞賛は、『ネイチャー』のような絶大な権威の学術誌に発表された論文が真実でないことはあり得ない」という、一種の信仰によるものであった。この学術雑誌信仰の裏にある実態を考えてみよう。
 すでに説明したように、筆者は神経・筋肉研究分野の「古典的」生理学が、「遺伝子研究」に学問の主流の地位を譲る変動期にめぐり合わせた。当時筆者がもっとも苦々しく思ったのは、この『ネイチャー』誌の態度であった。
 筆者はこの雑誌に時々論文を発表していたが、ある時、投稿した論文を「筋肉研究者は数が少なく、したがってこれに関する論文は大多数の読者に注目されないので掲載できない」との理由で、論文審査なしに編集者によって却下されたのである。
 筆者の国外の友人たちも、みな、同じ目にあい、「『ネイチャー』は筋肉の論文をもはや受け付けないそうだ」との噂がひろまり、彼らは『ネイチャー』を論文発表の際、考慮の外に置くようになった。
 ノーベル生理学・医学賞受賞者のハクスレー氏は、筆者と三十年にわたり親交があったが、やはり同じ理由で、論文掲載を拒否され、筆者の自宅を訪問された際、「Nature is no longer useful!」(『ネイチャー』誌はもう役に立たない!)と憤懣を述べられた。
 このように、一般に絶大な権威と信用があると見なされている『ネイチャー』誌の正体は、現在流行の、したがって研究者数も圧倒的に多い学問分野の論文を恣意的に優先して掲載することによって購読者数を増やし、利益を増大させる商業誌、つまりビジネスに過ぎないのである。


 インパクトファクター」とは「流行ファクタ−」

 この『ネイチャー』誌の「見かけの」権威を支えているのが、現在流行の「インパクトファクター」である。
 これは、ある学術誌に一年間に掲載されたすべての論文が、他の研究者の論文中に引用された回数を示す値であり、研究者の多い流行の分野をあつかう学術誌のインパクトファクターが高い値を示すのは当然である。この結果、過去に絶大な権威のあった『The Journal of Physiology』(この雑誌は英国生理学会の機関誌で、ケンブリッジ大学出版局から出版される)のインパクトファクターはわずか「4」から「5」にすぎないのに対し、『ネイチャー』誌などの商業主義の雑誌は、この値が「30」台である。
 つまりこのインパクトファクターは、研究者の数を反映する「ポピュレーションファクター」あるいは「流行ファクター」にすぎず、個々の論文の学問的価値とは何の関係もないのである。
 このように、インパクトファクターの実態は浅薄極まるものであるにもかかわらず、わが国では軽薄にも、この値を過度に尊重し、多くの大学、研究機関で、職員の採用、あるいは昇任に、候補者が過去に発表した全論文のインパクトファクターの合計値を、人事決定の最優先事項として用いるようになった。
 さらにわが国では、不合理極まりないことに、『ネイチャー』誌掲載論文の共著者に名を連ねれば、ほんの一部の実験の手伝いをした未熟な研究者であっても、インパクトファクター「30」が加算され、昇任人事で圧倒的優位に立つのである。
 この結果、筆者の所属する医学部の多くの研究室の後任人事でも、従来の古典的生理学者は、次々と流行分野を専攻する研究者に敗北し、大学、研究機関の職員の学問分野は遺伝子研究に置き替えられていった。

(杉晴夫『論文捏造はなぜ起きたのか?』(光文社新書,2014)34-37頁)


私はアカデミズムの世界の住人ではないので、「インパクトファクター」なる言葉は、つい最近まで知らなかった。しかし、「研究不正」や「論文捏造」について論じる時、この「インパクトファクター」を考慮しない議論は片手落ちであると言っても過言ではなさそうだ。

くたばれ『ネイチャー』、くたばれ『サイエンス』〜「商業誌」が科学界に垂れ流す害毒/続・村松秀『論文捏造』(中公新書ラクレ)を読む - kojitakenの日記(2014年8月23日)で紹介した、村松秀氏の著書にも「インパクト・ファクター」(間に「・」が入っている)が言及されている。以下再掲する。

 また、シェーンは意図してかどうかは不明だが、『ネイチャー』誌と『サイエンス』誌に交互に論文を発表している。ある論文が『ネイチャー』に掲載されたら、その数ヵ月後には今度は『サイエンス』に別の論文が載る、といった具合だ。審査の時間がどれくらいかかっているのかにもよるので一概には言えないが、ともかくも、まるで両誌を競わせるような形で、投稿がなされていたのである。ジャーナル側も、話題になる論文をいち早く自分のところから出したいのは当然であろう。将来、シェーンがノーベル賞を取ったら、自分たちの雑誌に載った研究がノーベル賞につながった、とアピールすることもできる。加えて、この両誌は発行部数でもつねにライバル関係にある。商業誌としての意味合いも強い。売るためには、注目度の高い記事や論文が必須である。シェーンの論文は、まさにうってつけの存在だった。

(中略)

『ネイチャー』や『サイエンス』両誌などにシェーンの論文が次々と掲載されたことによって、数多くの世界の研究者たちは当然のごとく信頼に足る内容と考えて、その追試を行うことを決断したり、シェーンへの疑念を抱いても「あの超一流雑誌に掲載されたのだから」とその疑いを払拭しようとしたはずである。ジャーナルの門番としての責任は、きわめて重い。
 そもそも、『ネイチャー』や『サイエンス』といったトップジャーナルは、社会的な責任が非常に強い雑誌である。歴史的に権威があるからだけではない。掲載論文の近々2年間での引用比率を表す指標であるインパクト・ファクター」の値が両誌ともに高いことも、その有力な根拠となっている。よりたくさん引用されるのだから、科学界への影響もきわめて大きな、価値あるジャーナルと見なされるのである。しかし実際には、雑誌側が生き残りのためにインパクト・ファクターを重要視するあまり、内容よりもとにかくセンセーショナルな論文を求めたがり、チェックも緩いままに掲載してしまう傾向があるのではないか、と指摘する声もある。
 その一方で、こうした権威ある雑誌に論文が掲載されることは、科学者にとっても名誉であると同時に、非常に大きな実績として認知される。この実績は、実は科学界の中でももっとも重要な評価基準となっている。より魅力的なポストへとステップアップするのにも欠かせない。採用する側である研究施設側から見ると『ネイチャー』や『サイエンス』両誌に論文が掲載されたという事実は、きわめて大切な評価の目安になっているのだ。さらに、そうした実績は、国などから配布される公的な研究費の審査に際しても、大変重要な価値として認められることにもなる。
 つまり、超一流雑誌に掲載されれば、いわばそれが担保のように、次のポストや研究費獲得にもつながっていくわけである。今回の取材の結果わかったのは、その担保には、実はきちんとした科学的な裏付けがとられていなかった、ということだ。シェーンの事件は、超一流雑誌に対して私たちが抱いていた信頼や信用の失墜を招いただけではない。「雑誌に論文が掲載されることが実績となって評価が決まる」という、科学界で活動していくのに必須だったはずの、もっとも重要なシステムの根幹に、きわめて大きな欠陥があることを図らずも露呈させてしまったのである。
村松秀『論文捏造』(中公新書ラクレ,2006) 145-148頁)


また、下記の本にも「インパクトファクター」の話が出てくる。


嘘と絶望の生命科学 (文春新書 986)

嘘と絶望の生命科学 (文春新書 986)


以下引用する。

 どの雑誌に掲載されるかが、論文の価値を決める。他の論文に引用されることが論文の価値を決める。たくさんの論文に引用される論文がたくさん掲載されている雑誌が、良い雑誌とされる。これを数値化したのが「インパクトファクター」だ。トムソン・ロイター社が提供しているサービスだ。
 たとえば2014年のある雑誌のインパクトファクターは次のように計算する。2012年と2013年にその雑誌に掲載された論文が、2014年にいくつ別の論文に引用されたかを、2012年と2013年にその雑誌に掲載された論文数で割る。
 結局のところ、その雑誌の平均的な論文の引用率を出したにすぎないわけで、たとえいい雑誌に論文が掲載されても、ほとんど引用されない論文もある。要は目安なのだ。
 けれど、その目安が一人歩きしている。
 バイオで3大誌と呼ばれるセル、ネイチャー、サイエンス(通称CNSと呼ばれる)のインパクトファクターは極めて高い。30から40に達する。そんな雑誌には世界中から多数の論文が投稿されている。投稿された論文に対する掲載率は数%に過ぎない。そんな狭き門を通った論文は良い論文に違いない。客観的に価値は保証されるから、CNSに載れば、研究者としての株がボーンとあがる。バイオ研究のルイ・ヴィトンクリスチャン・ディオールみたいなものだ。いわばブランドというわけだ。
 かたや論文雑誌も自分のブランド価値を高めたいので、インパクトファクターをあげたい。だから、引用数が高くなる、研究者人口の多い分野の論文を優先する。
 さらに、研究者の業績評価は、インパクトファクターを元に行われる。出した論文のインパクトファクターを合計して、研究者の総合インパクトファクターを出す。その数字が、研究者評価の指標となるのだ。
 たとえば、ネイチャーに1本出せば、それだけでインパクトファクターが1の雑誌に40本出すことに匹敵する。だから、インパクトファクターの高い雑誌を狙い、低い雑誌には論文を投稿しないという方針の研究者もいる。
 研究ポストを手に入れるのにも、もちろんこのインパクトファクターがものを言う。応募者が多数いる時は、インパクトファクターを比較することになる。もちろん、インパクトファクターだけですべてが決まるわけではないが、少なくとも最終候補者を決める選考くらいには使われる。A候補は総インパクトファクター数百点、B候補はそれより少ない数百点、というように。いくら有名でも、インパクトファクターが大したことのない研究者は弾かれるわけだ。
 また、研究費の獲得にもインパクトファクターがモノを言う。
 研究者は研究費がなければ何もできない。とくにバイオ研究は、研究を行うためのスペース、実験器具、試薬代、細胞やマウスなどの生き物の飼育代など様々なお金がかかる。「紙と鉛筆さえあれば」と言われる数学や理論物理とは違う。研究費はバイオ研究者にとってなくてはならない命題なのだ。
(榎木英介『嘘と絶望の生命科学』(文春新書,2014)174-176頁)


引用していてうんざりしてくるが、研究不正や論文捏造を論じた上記3冊の本が揃って指摘しているのが「インパクトファクター」の弊害なのである。この事実を知ると、上記榎木英介氏の著書の冒頭に出てくる、下記のフレーズに納得してしまう。

「小保方さんなんてかわいいほうですよ。もっと真っ黒な人、いっぱい知っています」
 これは、2014年前半、研究者のみならず、世間に衝撃を与えたSTAP細胞をめぐる騒動のさなか、知人の研究者が漏らした言葉だ。
(榎木英介『嘘と絶望の生命科学』(文春新書,2014)7頁)


小保方晴子はあまりにも「アレ」だし、佐村河内守の嘘が露呈した直後ということもあってセンセーショナルに叩かれた、また小保方晴子本人にも叩かれるだけのことはあったと私は思うが、それでもSTAP細胞事件を「小保方晴子の特異な人間性」にすべてを帰して幕引きを図ることは、百害あって一利なしであろう。

研究不正、論文捏造の根は深い。そこには、「科学の商品化」(「万物の商品化」の一例といえるかと思う)という新自由主義イデオロギー的な問題があり、特に日本の文科官僚などが、軽薄かつ無批判にインパクトファクターを信奉しているらしいことは、もっと注目され、徹底的に批判されるべきであろう。