社会党の躍進と没落の象徴・土井たか子元社会党委員長が死去した。
http://www.47news.jp/CN/201409/CN2014092801001286.html
土井たか子氏が死去 元衆院議長
社民党は28日、元衆院議長で元党首の土井たか子氏が死去したと発表した。85歳。
(共同通信 2014/09/28 10:49)
私が選挙権を持つ前の子ども時代、土井氏の選挙区に長く住んでいた。当時の兵庫2区には、土井たか子と堀昌雄の2人の社会党衆院議員がいて、ともに大物だったが、選挙に強いのは土井たか子の方だったという印象が強い。一度など、堀昌雄が落選したこともあった。調べ直してみると、堀昌雄が落選したのは1976年の「ロッキード選挙」だった。堀は1958年の初当選のあと、1993年の「政治改革選挙」に立候補せず引退するまで11度当選したが、唯一落選したのが1976年の衆院選だった。だから、堀昌雄とて決して「選挙に弱い」政治家ではなかったが、それでも土井たか子とともに立候補した8度の選挙のうち6度まで土井たか子の後塵を拝した。落選の次の1979年の衆院選で堀昌雄が土井たか子を上回ったのを最後に、1980年以降は土井たか子がずっと堀昌雄を上回る票を獲得した。そして1983年に土井たか子は社会党副委員長に就任した(もっとも堀昌雄も同時期に副委員長を務めた)。さらに土井たか子は、1986年に石橋政嗣が衆参同日選挙の大敗の責任をとって辞任したあとの社会党委員長に就任した。
土井たか子の政治人生の頂点は、「山を動かす」「山が動いた」の言葉とともに記憶される1989年の参院選圧勝であろう。消費税創設への反発があり、誰が指導者でも選挙に勝つことはできたかもしれないが、あのような地滑り的大勝は、他の政治家、たとえば堀昌雄のような穏やかなイメージの政治家には成し遂げ得なかっただろう。土井たか子委員長ならではの圧勝劇だった。だが、皮肉にもそれは社会党大転落の始まりでもあった。自民党(→新生党)の小沢一郎が主導した90年代の「政治改革」に社会党も呑み込まれたが、この時に土井たか子は衆院議長として致命的な失策を犯した。当時の首相・細川護煕と自民党総裁・河野洋平の会談を斡旋した土井たか子は、当初250:250とされていた小選挙区と比例代表の定数を、小選挙区の定員を割増して300:200とする合意を招いてしまったのである。これにほくそ笑んだのが小沢一郎ら「小選挙区制原理主義者」たちだったことはいうまでもない。「政治改革」の当初から選挙制度改変に強い反対意見を持っていた私が「土井たか子、いったい何やってんだよ」と呆気にとられた時にはもう後の祭り。土井たか子は、社会党崩壊の最大の戦犯になってしまったのだった。「また故人への批判かよ」と言われるかもしれないが、土井たか子について論じる時、この件を抜かすわけにはいかないだろう。
とはいえ、安倍晋三が台頭してきた2002年に、安倍が土井たか子と菅直人を「間抜け」呼ばわりした時には私は激怒したものだ*1。
いや、これこそ土井たか子とは何の関係もない話だった。大いなる功績と大いなる失策をともに残して、土井たか子は逝った。故人のご冥福を祈りたい。