kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

"Nuclear Plant"なんだから原発を「核発電所」と呼ぶべきなのは当然だが

村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト(2015年4月3日)

村上さんにおりいって質問・相談したいこと

2015-04-03
これから「核発電所」と呼びませんか?

〉1999年文庫本化された『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』。この中で村上さんは、「原発ではないほかの発電技術を開発することが経済大国としての日本だ。一時、経済は衰退するかもしれないが、原発のない国として尊敬される」というようなことを書かれていました。
〉私は、これを読んだとき、深く感動しました。そして、いつの日か、原発のない、今で言うところの再生可能エネルギーや蓄電技術の発達で、安定かつ本当の意味でのクリーンなエネルギーが作れるものと思いました。
カタルーニャでのスピーチでは、原発事故について、「日本人は核について『ノー』というべきだった」とおっしゃっています。村上さんは、この点について、その後、どのようにお考えですか? 
〉(ほんだらかんだら、女性、54歳、市民講座講師)

REPLY

そうか、あの本にそんなことを書いていましたっけ。でもいずれにせよ、原発(核発電所)に対する僕の個人の考えは、当時から今まで一貫してまったく変化していません。

僕に言わせていただければ、あれは本来は「原子力発電所」ではなく「核発電所」です。nuclear=核、atomic power=原子力です。ですからnuclear plantは当然「核発電所」と呼ばれるべきなのです。そういう名称の微妙な言い換えからして、危険性を国民の目からなんとかそらせようという国の意図が、最初から見えているようです。「核」というのはおっかない感じがするから、「原子力」にしておけ。その方が平和利用っぽいだろう、みたいな。そして過疎の(比較的貧しい)地域に電力会社が巨額の金を注ぎ込み、国家が政治力を行使し、その狭い地域だけの合意をもとに核発電所を一方的につくってしまった(本当はもっと広い範囲での住民合意が必要なはずなのに)。そしてその結果、今回の福島のような、国家の基幹を揺るがすような大災害が起こってしまったのです。

これから「原子力発電所」ではなく、「核発電所」と呼びませんか? その方が、それに反対する人々の主張もより明確になると思うのですが。それが僕からのささやかな提案です。

村上春樹


ここで村上春樹が言っていることは、反原発派にとっては耳新しい話でも何でもない。一昨年にこの日記に下記のように書いたが、それにしたって私のオリジナルでも何でもなく、東電原発事故の前だったかあとだったかも忘れたが、どっかで見た文章に「なるほど、その通りだ」と思ったことを思い出して書いたものだ。

あの原発推進国家・中国でさえ核燃料加工場の建設が中止 - kojitakenの日記(2013年7月15日)より。

ところで、「原子力発電」などという日本語自体がまやかしだよなと常々思っている。日本でいう「原子力発電所」は英語では "nuclear plant" なんだから、正しく「(原子)核(力)発電所」と表記すべきだろう。「原子」や「力」は省略可能だと思うけど、「核」の一文字だけは省略してはならないんじゃないか。


村上春樹も1999年に書いた本に反原発の文章を書いているくらいだから、反原発派なら当たり前の感覚で答えたことに、二百数十件もの「はてなブックマーク」がつき、しかも少なからぬネガコメがついているのには驚きだ。もっとも強烈な原発推進政権である安倍内閣の支持率が半数前後にも及ぶくらいだから、「脱原発」の勢いは弱まり、昔ながらの原発推進勢力が勢いを盛り返しているのであって、それを考えれば多数のネガコメも驚くにはあたらないかもしれないが。

ところで、『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』は、わが読書記録を参照すると、2013年7月4日から6日にかけて読んでいる。この日記に取り上げたとばかり思っていたが、調べてみると取り上げていなかった。


村上朝日堂はいかにして鍛えられたか (新潮文庫)

村上朝日堂はいかにして鍛えられたか (新潮文庫)


このエッセイ集ですぐに思い出すのは、阪神間における部落差別問題を取り上げた「僕らの世代はそれほどひどい世代じゃなかったと思う」(新潮文庫版306-311頁)である*1。このエッセイについては、またいつか触れることがあるかもしれない。

上記のエッセイも本の終わりの方に置かれているが、原発について触れているのはそのさらにあとの、「おまけ(2)*2」として書かれた「ウォークマンを悪く言うわけじゃないですが」(新潮文庫版317-321頁)である。その文章は質問者が記憶に基づいて書いたと思われる文章とはだいぶ違う。たとえば「一時、経済は衰退するかもしれないが」とは書かれていない*3。以下引用する。

 世の中に「これからの二十一世紀、日本の進むべき道がよくわからない。見えてこない」と発言する人々がいるけれど、そうだろうか? 僕は思うのだけれど、現在我々の抱えている最重要課題のひとつは、エネルギー問題の解決――具体的に言えば、石油発電、ガソリン・エンジン、とくに原子力発電に代わる安全でクリーンな新しいエネルギー源を開発実現化することである。もちろんこれは生半可な目標ではない。時間もかかるし、金もかかるだろう。しかし日本がまともな国家として時代をまっとうする道は、極端にいえば「もうこれくらいしかないんじゃないか」と、五年間近く日本を離れて暮らしているあいだに、実感としてつくづく僕は思った。

(中略)もし仮に二十一世紀に入って、日本がこのまま繁栄の盛りを越えてしまうとしたら、それはあまりにも寒々しく空しいのではあるまいか。後世の歴史家に後ろ指をさされても、ちょっと文句を言えないんじゃないか。

 反核運動ももちろんそれは大事だろう。フランス・ワインの不買運動も結構。でも技術的に*4原子力を廃絶させるシステムを作りあげることに成功すれば、日本という国家の重みが現実的に、歴史的にがらっと大きく大きく違ってくるはずだ。「いろいろあったけど、日本はその時代やっぱりひとつ地球、人類のために役に立つ大きなことをしたんだな」ということになる。それは唯一の被爆国としての日本の、国家的な悲願になりうるはずだ。

村上春樹安西水丸『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』(新潮文庫,1999)320-321頁)


その後日本は、「唯一の被爆国」にとどまらず、旧ソ連チェルノブイリ原発事故と並んで世界二大原発事故に数えられる東電福島第一原発事故(略称・東電原発事故)を起こしながら、安倍晋三とその政権と経産省(と電力会社と電力総連と自民党や安倍政権を支持する人間ども)は、原発再稼働や新規原発の建設、それに原発の輸出を推進し、時代錯誤の「富国強兵」を目指すという、誰がどう考えても持続不可能な方向に安倍晋三以下の権力者グループが気が狂ったように突き進んでおり、国民もその狂気の政策を止めようとはしない。

これは想像を絶する事態だと思うのだ。為政者も国民も、日本という国をクラッシュさせる方向に迷走しながら進んでいるとしか思えない。

目新しいことは特にない村上春樹の「核発電所」呼称の提言ではあるが、日本がとんでもない方向に狂進している現状の空恐ろしさを改めて思い起こさせてくれた意味は認められる。

*1:というより、阪神間の部落差別問題を取り上げたこのエッセイが掲載されていることを知ったからこの本を買って読んだのだった。

*2:本では丸数字になっている。

*3:別の頁に書いてあるのかもしれないが。

*4:太字にした部分は、本では傍点が付されている。