kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

安倍晋三の「積極的平和主義」の何が問題か

人の文章をまともに読もうともせず、相も変わらぬ思考停止のコメントを書き続ける人がいる。『きまぐれな日々』へのコメントより。「はてな」では id:spirit7878 と名乗る人間のコメントである。

http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1404.html#comment19043

(前略)
安倍談話ですが、かなり無難な言葉を使っているので、批判はかなり難しいです。
『積極的平和主義』も言葉としては綺麗だからどこがいけないのか指摘しにくい。
SEALDsの人たちは、『本音から多少ずれている』と言っていますけれど、やっぱり批判はしていないんですね。

2015.08.29 16:02 SPIRIT(スピリット)


「○○を読め」(『○○』とは、たとえば朝日新聞に掲載されたヨハン・ガルトゥング氏のインタビュー記事)と書いても読む気はいっこうになさそうなので、以下に安倍晋三の "Proactive Contribution to Peace" を批判した記事を引用しておく。「安倍談話」に対する批判ではなく、一昨年(2013年)に書かれた記事。

自称「右翼軍国主義者」の「積極的平和主義」:安倍首相の国連演説 | ネパール評論 Nepal Review(2013年10月1日)より

自称「右翼軍国主義者」の「積極的平和主義」:安倍首相の国連演説

安倍首相が,自称「右翼の軍国主義者」として,H・カーン賞受賞スピーチ(9月25日)と国連総会演説(9月26日)において,「積極的平和主義」を唱えた。

このうち自らを「右翼の軍国主義者(right-wing militarist)」と称したのは客観的な正しい事実認識だが,「積極的平和主義」の方は極めて欺瞞的である。外国と英語を利用した巧妙な詐術。こんな不誠実な元首演説を許してはならない。

1.”under control”以上に危険な「積極的平和主義」

安倍首相は自他ともに認める「右翼」だから,夷狄たる諸外国ないし国際社会の常識は端から無視している。リオデジャネイロでは,カタカナ英語で”under control”と放言した。国際社会の常識では,福島原発の現状は”un-controlled”あるいは”out of control”だが,そんなことは全く意に介さない。

このような用語法は,「右翼の軍国主義者」の伝統に則っている。周知のように,帝国陸軍は対中「戦争」を「事変」と呼び換え誤魔化した。また,戦況不利で退却を余儀なくされると,それを「転進」と呼び換え誤魔化した。しかし,国際社会の常識では,中国での戦いは「戦争」であり,部隊の後退は「退却」ないし「敗退」である。

このような言葉による誤魔化しは,国際社会では通用しなかったが,不幸なことに,いや滑稽かつ悲惨なことに,日本社会では効果絶大であった。帝国臣民は素直に「事変」と信じ,暴支膺懲に走った。そして,帝国陸海軍の「転進」は,結局,大日本帝国それ自体を破滅させることになった。「敗退」,「退却」であれば,敗因と責任が解明され,次の作戦に生かされていたはずだが,「転進」,「転進」と叫んでいるうちに,銃後の臣民ばかりか軍自身もそれを信じてしまい,同じような失敗を繰り返し,戦況を見失い,あげくは,あの破滅的敗戦の悲惨を招くことになってしまったのである。

福島原発も,”under control”と言いつのっているうちに,当事者までそれを信じ,ますます事故原因の解明や責任追求がおろそかとなり,結局は帝国陸海軍と同じような破滅への行程を辿ることになってしまう可能性が高い。

安倍首相の「積極的平和主義」もまた,このような呼び換え語法の一変種である。安倍首相は,国際社会では「消極的平和」と呼ばれているものを「積極的平和主義」と呼び換え,国連総会演説やH・カーン賞受賞スピーチで,それを日本政府の平和貢献への基本指針とすると宣言した。これは”under control”に勝るとも劣らない危険な重大発言である。

2.消極的平和の定義

安倍首相の掲げている平和は,国際社会の常識では,積極的平和ではなく,消極的平和(negative peace)である。これは,「平和」を「戦争のない状態」と定義する。「ない」というnegativeな形での定義なので,「消極的(negative)平和」と呼ばれている。

消極的平和は,近代の基本的な平和概念であり,これは「力のバランス(balance of power)」によって実現されると考えられていた。だから,平和(戦争のない状態)の実現には,「力」(中心は軍事力)が不可欠であり,常に相手をにらみながら軍事力を増強することが求められた。

この消極的平和は現在でも根強く支持されており,日本の歴代政府も基本的にはこの立場をとってきた。安倍内閣もそれを継承したが,従来の慎重に限定された自衛隊の役割には満足できず,その制限を一気に取り払う政策へと大きく方向転換した。軍隊の抑止力による平和(消極的平和)が前面に打ち出され,憲法解釈変更による集団的自衛権行使の承認や憲法9条の改正,あるいは日米安保の強化が強く唱えられるようになったのは,そのためである。国際常識から見ると,このような安倍首相の平和政策は,まちがいなく「消極的平和主義」である。

3.積極的平和の定義

これに対し,積極的平和(positive peace)は,第二次世界大戦終結前後から注目されはじめ,ガルトゥングらの努力により,冷戦終結後,急速に有力になってきた平和の考え方である。積極的平和は,単に戦争のない状態,つまり消極的平和は真の平和ではないと考える。たとえ戦争が無くても,社会に貧困,差別,人権侵害などの構造的暴力があれば,あるいは日本国憲法の文言で言うならば「専制と隷従,圧迫と偏狭」などがあれば,その社会は平和とはいえない。構造的暴力は紛争原因となり,紛争は戦争をも引き起こす。だから真の平和は,構造的暴力が存在せず,人々が基本的人権を享受しうるような積極的(positive)な状態でなければならないのである。

この積極的平和の実現には,軍隊はほとんど役に立たない。構造的暴力は,非軍事的な人間開発*によってはじめて効果的に除去できる。消極的平和が軍事的手段によって「戦争のない状態」の実現を目指すのに対し,積極的平和は平和的・非軍事的手段によって「戦争原因のない積極的平和」の実現を目指すのである。
 *「人が自己の可能性を十分に発展させ、自分の必要とする生産的・創造的な人生を築くことができるような環境を整備すること。そのためには、人々が健康で長生きをし、必要な知識を獲得し、適正な生活水準を保つための所得を確保し、地域社会において活動に参加することが必要であるとする。パキスタンの経済学者マプープル=ハクが提唱した概念(デジタル大辞泉)」。国際社会ではUNDPが中心になって人間開発に取り組んでいる。

4.呼び換えとしての「積極的平和主義」

以上が,平和の二概念に関する国際社会の常識である。だから,私も,当然,安倍首相がこの国際常識に従って「積極的平和」を唱えたものと思っていた。ところが,驚いたことに,実際には,そうではなかった。安倍首相は,消極的平和への貢献を積極的平和主義と呼び換え,そのための軍事的貢献を国際社会に約束したのである。

まず注目すべきは,用語法。日本語の方は,国連演説(日本語)でもH・カーン賞受賞スピーチ日本語訳でも「積極的平和主義」となっている。ところが,英語の方は,いずれにおいても,"Proactive Contribution to Peace" ないし "Proactive Contributor to Peace" となっている。(国連演説英訳H・カーン賞受賞スピーチ英語原文

当初,安倍首相が「積極的平和主義」を唱えたと報道されたので,私は,てっきりガルトゥングらのいう”positive peace”,あるいは非軍事的手段による平和貢献を語ったのだと思い,大いに期待した。ところが,そうではなかった。”positive”はなく,その代わりに”proactive”が「貢献」の前に置かれ,日本語版では「積極的平和主義」と表記されていたのだ。巧妙な呼び換え,いや欺瞞,詐術とさえ言ってもよいかもしれない。

それでも英語の方は”proactive”と言っているので,少なくとも外国では大きな誤解は少ないだろう。”proactive”という用語は,”proactive defense”という形でよく使用されるように,事前・先手の対策,その意味での積極的防衛という意味合いが強い。安倍首相は,H・カーン賞受賞スピーチで具体例を挙げ,”proactive”をこう説明している。

現在の日本国憲法解釈では,国連PKO派遣自衛隊は,隣の派遣外国軍が攻撃されても助けられない。また,日本近海の米艦が攻撃されても,自衛隊の艦船は米艦を助けられない。これは”proactive”ではない。だから「日本は,地域の,そして世界の平和と安定に,今までにもましてより積極的に(proactively),貢献していく国になります」。つまり,平たく言えば,憲法集団的自衛権行使を禁止しているというこれまでの政府解釈を変更し,あるいは機を見て憲法9条を改正し,自衛隊を普通に戦える軍隊に変えることによって,自衛隊を戦う軍隊として国連PKO多国籍軍,あるいは日米共同軍事作戦に参加させるということである。

これは,いうまでもなく軍事力による平和貢献であり,目指されている平和は,結局,「消極的平和」ということになる。消極的平和への”proactive”な貢献!

ところが,日本国内向けの日本語版になると,安倍首相はもっぱら「積極的平和主義」を唱えたということになり,これだけでは従来一般的に使用されてきた「積極的平和(positive peace)」と見分けがつかない。実に紛らわしい。というよりもむしろ,意図的に紛らわしい用語を用い,積極的平和を支持してきた多くの人々を惑わせ,取り込むことをひそかに狙っているように思われる。(後略)

(『ネパール評論 Nepal Review』 2015年10月1日)


読んでもらいたいのは、青字と赤字のボールドで引用した部分である。赤字ボールドは原文に倣ったものだが、青字ボールドは引用者による。リンク先の記事の引用部分の続きも読んでもらいたいが、リンク先を参照する手間くらいはかけてもらいたいので全文引用はしなかった。

そもそも、

『積極的平和主義』も言葉としては綺麗だからどこがいけないのか指摘しにくい。

とは、なんという怠惰な言い草か。

「積極的平和主義」とは、その美名とは裏腹に、パワーポリティクスによる「力の平和」の「力」をアメリカと一緒になって実行していくことにほかならない。

私は、「安倍談話」に「おわび」と「積極的平和主義」が入った - kojitakenの日記(2015年8月14日)で下記のように書いた。

注目された「4つのキーワード」はすべて入ったが、「積極的平和主義」も入った。今週のTBSテレビ『サンデーモーニング』(8/9)で岸井成格が懸念していた通りだった。

ネトウヨのブログ*1からの孫引きだが、岸井はこう言っていた。

「積極的平和主義と言う安倍内閣の看板は、国会の審議を聞いてると、地球規模で自衛隊を紛争地に送って解決させるという自衛隊の活用だということが分ってきた。
それを未来志向の談話にどう反映させるか気になる」


案の定、安倍晋三は談話に「積極的平和主義」を入れた。これは安倍の「戦争宣言」に他ならない。これを宣言するために、「4つのキーワード」で妥協したのだ。

安倍晋三が談話に「おわび」の文言を入れたからといって、そんなことに目くらましされていてはならないのである。


コメント主がコメントした記事 きまぐれな日々 「間接話法」と「積極的平和主義」が目立った「安倍談話」(2015年8月17日)でも下記のように書いた。

 談話発表前から岸井成格が繰り返し指摘していた通り、「積極的平和主義」とは「地球規模で自衛隊を紛争地に送って解決させるという自衛隊の活用」を意味する。これを「談話」に入れた安倍晋三は、改めて安保法案の成立に向けて強い意欲を示したといえる。談話に安倍晋三が入れたくもない「4つのキーワード」を入れたのは、そのための妥協だ。案の定、公明党や維新の党はこれを歓迎した。安倍自らの意思ではないことを暗示するために、キーワードは「間接話法」で入れた。これは安倍晋三の支持基盤である極右勢力に対するエクスキューズだ。案の定、次世代の党は安倍晋三を批判しなかった。

 安倍晋三は、これで今国会における最終目標である安保法案の成立へとラストスパートをかけるつもりだろう。反対する側も、法案の衆議院通過でやや勢いを失っている。猛暑の影響もあったとは思うが、デモの動員数も法案が衆議院を通過した7月中旬がピークだった。

 何より、ネトウヨの多くが高く評価する「安倍談話」に「理解を示す」腰抜けの「リベラル」が少なからずいるようではどうしようもない。


ところが、コメント主は全く聞く耳を持たないようである。だから、しゃあしゃあと

『積極的平和主義』も言葉としては綺麗だからどこがいけないのか指摘しにくい。

などと書ける。

想像するに、コメント主は

ネトウヨの多くが高く評価する「安倍談話」に「理解を示す」腰抜けの「リベラル」

の一人であって、「安倍談話」に対する(リベラル・左派からの)批判に不満を持っているのではないか。

いずれにせよ(上記の見方が当たっているか否かにかかわらず)、今回のような態度を改めるつもりがないのであれば、今後この日記や「きまぐれな日々」にコメントしないでいただきたいものだ。