kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

橋下徹と立憲主義

今年もまた、「リベラル・左派」は「橋下徹を克服する」という課題を解決できなかった。

今年はまた、安保法案の議論を通じて、立憲主義が大きくクローズアップされた年でもあった。

もっとも、2012年の自民党(野党時代)の第2次改憲案発表、2013年の特定秘密保護法成立、2014年の集団的自衛権政府解釈変更の閣議決定と、毎年のように立憲主義とのかかわりが議論されてはいたのだが、今年6月4日に行われた衆議院憲法審査会で、自民党推薦の憲法学者長谷部恭男が安保法案を「違憲」と断じて以来、特に大きく注目されるようになった。

この時の長谷部恭男の判断は、東京新聞が当日の夕刊一面トップで報じたものの、朝日新聞毎日新聞は(もちろん読売新聞も)夕刊では一面どころかどの面でも報じず黙殺した。それが大きな反響を呼んだのを知って、慌てて翌日の朝刊で後追いしたのだった。その直前に5月31日のTBSテレビ「サンデーモーニング」で姜尚中が安保法案の国会論戦を「消化試合」と評したが、この言葉に象徴されるように、「リベラル」側は戦意喪失状態だった。それが長谷部恭男が示した判断をきっかけに、安保法案論議が大きく盛り上がり、一時は安倍内閣の支持率を10ポイント以上も落としたくらいだった(但し安倍内閣支持率は現在では元に戻っている)。

うかつな私は、この件で初めて立憲主義を知っておかなくてはと思い、憲法学の世界ではかつて大きな勢力を誇った「マルクス主義法学」と対比して「保守派」と分類されているらしい、立憲主義系の憲法学者の書いた本を5冊(樋口陽一2冊、長谷部恭男、水島朝穂、木村草太各1冊)読んで、立憲主義のにわか勉強をしたのだった。もっともこれらの本を読んだのは安保法が既に成立したあとというレスポンスの遅さだった。

恥ずかしながら、これが日頃政治について記事を書いている人間の実態なのだが、そのふがいない人間から見てもさらにふがいないと思えるのが、同じように日頃政治についてブログ記事を書いている人たちだった。彼らはおそらく「立憲主義憲法が為政者の行為を束縛することだろ?」と言って、そんなこと知ってるよ、馬鹿にするなよと思っていることだろうが、そんな一言での要約を知っているからといって、立憲主義を理解していることには全くならない。なぜそう断言するかというと、立憲主義について書かれた本を読む前の私自身がまさにその状態だったからだ。もちろん、憲法学者が書いた本といっても一般書ばかりだから、今でも私が立憲主義を十分理解しているとはいえない。

橋下徹立憲主義」については、「橋下 立憲主義」でググると筆頭に表示される下記記事が良いと思う。安倍晋三橋下徹にそそのかされて憲法96条改憲論をブチ上げたものの、世論の反発を受けて参院選の争点にはしなかった頃の記事だ。

Blog「みずき」 憲法96条改憲問題 橋下大阪市長の「立憲主義」論は立憲主義の原理をまったく理解していない暴論でしかないということについて(2013年7月13日)

「特集:きょう憲法記念日 憲法96条改正の是非 日本維新の会共同代表・橋下徹氏、憲法学の樋口陽一氏に聞く」(毎日新聞 2013年05月03日 東京朝刊)という記事に関連して。

ある人 wrote:
樋口陽一氏の知見はさすがだが、橋下市長の立憲主義論が意外にまとも。


樋口氏の評価についてはそのとおりだと思いますが、「橋下市長の立憲主義論が意外にまとも」というのはどうでしょう?

橋下氏の「96条の国会発議要件を『2分の1以上』に引き下げることを緩和だとは思わない」。「日本の憲法改正手続きの一番の特徴は『3分の2以上の発議』ではなく、最後に国民投票にかけるということだ」などという発言を「まとも」と評価してのご意見でしょうが、この橋下氏評価は誤っていると思います。

樋口氏の論を紹介されていますが、その樋口氏は先月のの6月14日にあった「96条の会」発足記念シンポジウム冒頭の基調講演において憲法改正発議に必要な3分の2要件について次のように説明しています。

(動画がリンクされているが現在では参照できない=引用者註)

「96条はこれは憲法の前文の言葉ですけれども『正当に選挙された国会』で三分の二以上の合意が得られるまで熟慮と議論を尽くす。それでもなお残るであろう三分の一の意見を含めて十分な判断材料を国民に提供するのが国会議員の職責である。――96条の意味はそういうことであるはずです。」


ちなみに憲法96条の条文は以下のようなものです。

「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」


さらに樋口氏はその講演で立憲主義ということについて次のように説明しています。

憲法を基準にして公権力を縛ろう。この原則を立憲主義と申します。コンスティチューション、憲法を立てる、立憲主義。(ところでいまの96条改正論は)自分を縛るルールを緩めてくれ。そうすればあとはやりたいことがやれるから、という話でありますから、これは、そのこと自体が立憲主義を破壊するものである、ということは、いま申し上げたことだけでも納得していただけるものでありましょう。

それでもここで簡単ながらつけ加えておきたいことがあります。数分間だけ講義のようになりますが少々聞いてください。実はこれは憲法論の基本問題として19世紀のヨーロッパ以来議論してきた点なのです。というのは、こういうことです。憲法があってその下に法律以下のいろいろなルールがあります。いわば段階構造をなしております。そういう前提での話ですが、たとえば法律の規定を変えるルール、これは憲法に書いてあるわけですね。憲法第4章「国会」という章があってそこに書いてあって一段上のルール、法律よりは一段上のルールに書いてある。繰り返し言うと法律を変えるルールは一段法律よりも上の憲法というルールが国会に立法権を与えていることによって成り立つということですね。そうであるならば憲法の規定を変えるルール、これは96条です。これは憲法の規定を変えるルールについても同様なことが言えるはずです。つまり、96条よりも一段上の段階の根拠があるはず。その根拠に基づいてご承知の両院の3分の2プラス国民投票過半数という組み合わせに憲法改正権が与えられているはずであります。そうだとすれば、権限を与えられている側の憲法改正権が自分で勝手に自分の権限を変えることはできないはずだ。内外の学説がこういう議論をして参りました。

憲法改正権を定めた規定、私たちの憲法でいえばいうまでもなく96条より上にあって、そのことによって憲法改正権の根拠となるもの、これをある人びとは憲法憲法、あるいは憲法規範という言葉で呼んできました。また、別の人は、憲法改正権よりももう少し上にある憲法制定権という言葉で呼んできました。これは議論の立て方、アプローチの違いですのでこれ以上立ち入りません。もとより法律学の分野で学説というのはさまざまな学説が競い合っています。そういういろいろな考え方が切磋琢磨しあう中で考え方の前進が一歩ずつ進んでいく。いま私が申し上げた理屈、論理構成についても異論がまったくないわけではありません。しかし、たしかなことは、憲法改正の権限をその権限によって変えることができるのか、という本質的な議論をクリアしないままで96条を遣って96条を変えることはできない。理屈の上でできない、ということです。


「96条の国会発議要件を『2分の1以上』に引き下げることを緩和だとは思わない」。また、「日本の憲法改正手続きの一番の特徴は『3分の2以上の発議』ではなく、最後に国民投票にかけるということだ」という橋下氏の論理は、憲法改正のために必要不可欠な要素である「3分の2要件」をまったくく無視した暴論というべきですね。この論理を「まとも」ということはとてもできないように思います。

「99条の憲法尊重擁護義務の対象から国民が外れている意味は、この憲法自体を信じるか否かも国民の判断に任せているということだ。護憲派といわれる人たちが現行憲法を本当に守りたいのであれば、国民の判断に委ねるのが筋だ」という橋下氏の論理も、「憲法を基準にして公権力を縛る」という立憲主義の原理をまったく理解していない恣意性も甚だしい論理とはいえない論理だといわなければならないでしょう。

ちなみに単に「改憲」論者とのみみなされることの多い小林節慶応大学教授も上記の樋口氏と同様の認識を先日の日本記者クラブでの会見で樋口氏よりもさらにわかりやすくかみくだいて説明されています。ご参照ください。



13:00頃から、あるいは14:20頃から観るのがよいかもしれません。


もちろん、下記の記事を読んだだけで立憲主義が理解できるものではないことは言うまでもない。自ら立憲主義を知ろうと努力した上で、政治の世界で日々行われている議論を、自らが勉強している立憲主義の物差しに当てはめて解釈するという行為が必要だ。それをしないで、マスメディアで他人が言う言葉、あるいはブログやTwitterFacebookで他人が書いた文章をそのまま頭に入れて「わかったつもり」になるだけでは、いつまで経っても世の中の流れに流されていくだけだ。それでは安倍晋三と不愉快ななかまたちの暴虐非道を止めることなど永遠にできない。

たとえば当時の橋下徹の「自己申告」は下記のようなものだった。

http://mew-run7.jugem.jp/?eid=160

私の認識と見解
2013年5月27日
橋下徹
■私の拠って立つ理念と価値観について

まず、私の政治家としての基本的な理念、そして一人の人間としての価値観について、お話ししたいと思います。

いわゆる「慰安婦」問題に関する私の発言をめぐってなされた一連の報道において、発言の一部が文脈から切り離され、断片のみが伝えられることによって、本来の私の理念や価値観とは正反対の人物像・政治家像が流布してしまっていることが、この上なく残念です。

私は、21世紀の人類が到達した普遍的価値、すなわち、基本的人権、自由と平等、民主主義の理念を最も重視しています。また、憲法の本質は、恣意に流れがちな国家権力を拘束する法の支配によって、国民の自由と権利を保障することに眼目があると考えており、極めてオーソドックスな立憲主義の立場を採る者です。


上記リンク先のURLを見てピンときた読者もごく少数おられると思うが、上記橋下徹の「自己申告」をそのまま受け入れて記事を書き、2013年当時の私を苛立たせたのが、このところ始終私が槍玉に挙げている「リベラル」ブロガーだった。つまり、「リベラル」氏は他人であるところの橋下徹が書いたことをそのまま無批判に受け入れて、自らの「橋下徹像」を作っていたのだった。

だが、橋下の自己申告をそのまま受け入れた当該の「リベラル」ブロガーと同様、当時の私は立憲主義を全く理解していなかったので、「リベラル」氏の書く記事に苛立ちながらも、「立憲主義」の言葉を用いて「リベラル」氏の記事を的確に批判することができなかったのだった。そのことに今頃気づいてこうして記事を書いているのだが、読者から見れば、何やってんだこいつ、2年も前のことに何をいつまでもこだわっているんだ、と思われるだろう。だが、ここは何も読者から金を取って自分の文章を売る場ではないので、今自分が書きたいことを書いておくまでの話だ。

しまった、もっと早く立憲主義を知ろうとする努力をすべきだったというのが、今年最大の私の後悔である。