kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

ムハマド(モハメド)・アリ死去

ムハマド(モハメド)・アリが死んだ。わけあって共同通信毎日新聞の訃報記事を引用する。

http://this.kiji.is/111647509823701000

元ボクサーのアリ氏が死去
74歳、元ヘビー級世界王者
2016/6/4 14:06


 1976年6月、格闘技世界一決定戦でプロレスのアントニオ猪木(右)と対戦したプロボクシングの世界ヘビー級王者ムハマド・アリ氏=日本武道館 【ワシントン共同】米NBCテレビなどは4日、呼吸器系の病気で入院していたボクシングの元世界ヘビー級王者のムハマド・アリ氏が死去したと報じた。74歳。

 米ケンタッキー州出身。1960年ローマ五輪のライトヘビー級で金メダルに輝いた。プロでは64年にソニー・リストン(米国)から世界ヘビー級王座を奪うと、9度の防衛に成功した。

 名前を「カシアス・クレイ」からイスラム教への改宗で変えたアリ氏。ベトナム戦争で徴兵を拒否してタイトルを剥奪され、黒人解放運動に加わったこともある。

 現役時代にジョージ・フォアマン氏(米国)らと名勝負を繰り広げたアリ氏は81年に引退した。

共同通信より)


http://mainichi.jp/articles/20160604/k00/00e/050/303000c

ムハマド・アリさん死去
最強伝説に幕 3度王座君臨

毎日新聞 2016年6月4日 14時10分(最終更新 6月4日 20時43分)

ボクシング、人種や宗教差別…戦いの連続の人生

 ボクシングの元ヘビー級世界王者、ムハマド・アリさんが日本時間4日、74歳で他界した。ベトナム戦争の徴兵拒否で王座を奪われた後の復活劇。人種や宗教差別への抵抗。晩年の闘病生活。20世紀を代表するスーパースターの人生は、戦いの連続だった。【ニューヨーク田中義郎、高橋秀明

 1996年7月、米ジョージア州アトランタ五輪の開会式に最終点火者として登場すると、世界中が息をのんだ。パーキンソン病の影響で手の震えが止まらない。笑顔をつくろうとするが、うまく笑えない。それでも聖火をともした。米国と戦い続けた男は、懸命に大役を演じ切った。

 米ケンタッキー州の貧しい黒人街で育ち、18歳で迎えた60年のローマ五輪で金メダルを獲得した。しかし故郷に帰り、レストランに入ると、「黒人が来る所ではない」と閉め出されてしまう。「アメリカのために戦い、金メダルを取ったのに、1セントの価値もないのか」。自叙伝には差別に怒り、オハイオ川に金メダルを投げ捨てたと記されている。

 64年に22歳で世界タイトルを奪った後、黒人イスラム教組織に入り、カシアス・クレイから改名した。ベトナム戦争中に徴兵された際には「他人の命を奪う戦争に行くより、刑務所を選ぶ」と拒否。67年にタイトルを剥奪されたが、3年余のブランクを経て、奇跡的に王座に返り咲いた。その後、タイトルを失ったが、3度目の王者となった。

 全盛期には「俺に不可能なことなんて、何もない」と言い続けたが、晩年は病気に苦しめられた。81年に引退し、3年後に進行性の神経系疾患である「パーキンソン症候群」と診断された。長年のボクシング生活の影響だとみられている。

 それでも96年アトランタ五輪で病気と闘う姿を世界に示した。米大統領選で共和党候補指名を確実にしたドナルド・トランプ氏が昨年末、テロ対策の一環として「イスラム教徒の入国は禁止」と発言すると、アリさんは立ち上がった。トランプ氏を名指しこそしなかったが、「イスラム教を個人の利益追求のために利用しようとする人間がいる。イスラム教徒は抵抗しなければならない」と訴えた。その勇気は、「ザ・グレーテスト(世界で最も偉大な男)」と呼ばれた現役時代と変わらぬ強い輝きを放った。

毎日新聞より)


共同通信毎日新聞は、通常表記される「モハメド・アリ」ではなく「ムハマド・アリ」と表記している。共同通信の表記については私の記憶通りだが、毎日新聞は違う。昨年2月に私が調べて、

ボクシング選手の Muhammad Ali は、大部分のマスメディアに「モハメド・アリ」と表記されていた。70年代の毎日新聞は「ムハマド・アリ」と表記していたが、いつの間にか他紙に倣って「モハメド・アリ」の表記に変えていた。

と書いたことがあるのだった*1

つい最近、先月の毎日新聞でも「モハメド・アリ」の表記が確認できる。

世界格闘技の日:猪木アリ戦から40年 6月26日を制定 - 毎日新聞

世界格闘技の日
猪木アリ戦から40年 6月26日を制定

毎日新聞 2016年5月16日 14時40分(最終更新 5月17日 18時46分)

 「世紀の一戦」が記念日に−−。 プロレスラーのアントニオ猪木さん(73)と、プロボクシング世界ヘビー級王者のモハメド・アリさん(74)による「格闘技世界一決定戦」が行われた1976年6月26日から40年の今年、日本記念日協会が「世界格闘技の日」と認定した。東京都内で16日に記者会見した猪木さんは「たいへんありがたい。私にとってアリ戦はどこに行ってもついて回る。この記念日をきっかけに格闘技ブーム、プロレスブームがもう一度起こればいい」と語った。

 試合は土曜日の昼間に行われ、米国へも衛星生中継された。日本ではその日の夜にも再放送され、昼夜合わせて視聴率は50%以上を記録した。試合はNHKでも速報され、毎日新聞も26日夕刊で「猪木・アリ“真昼の決闘”寝たきり猪木にアリ舞えず」と報じるなど、日本中が注目した一戦だった。日本記念日協会は「世界中が注目し、その偉業は現在へ続く全世界レベルでの総合格闘技の礎となった試合」と評価し、記念日に制定した。

当時は酷評 現在は「名勝負」の評価も

 試合は、猪木さんが寝転がった状態からアリさんの足に蹴りを仕掛け、アリさんのパンチが届かず攻めあぐねる展開だった。結局、両者決め手に欠け、15ラウンド引き分けに終わった。

 当時、ルール説明の不徹底から酷評された一戦も、アリ側からの厳しい要求によるルール上の制約があったためで、猪木側にとっては不利なルールであったことがのちに判明している。今では「名勝負」との評価もある。

 現在の総合格闘技でも、片方が寝て、片方が立っている状態を「猪木・アリ状態」と表現し、寝ている選手が放つ蹴りは「アリキック」と呼ばれている。

 猪木さんは「当然勝ちたかった。一方で、アリに勝っても世界のスーパースターになれたかどうか(わからない)。結果的に見れば、引き分けでよかった。試合は思い通り行かず、たいへんな不評を買ったが、時間がたってみなさんが評価してくれている。そういう意味では人生を学んだ」と当時を振り返った。

 二人はこの戦いで友情が芽生え、アリのテーマ曲「アリ・ボンバイエ」を猪木さんにプレゼント。猪木さんのテーマ曲「炎のファイター・イノキボンバイエ」となり、高校野球の応援に演奏されるなど、今なお親しまれている。【平野啓輔】


訃報に合わせて、毎日新聞の伝統的な表記だった「ムハマド・アリ」に戻したといったところか。なお、Muhammad Aliの英語発音をカタカナ表記にした場合、「モハメド」と「ムハマド」のどちらが近いかなどは知ったことではない。それから、他のメディアでは朝日、読売、時事通信が「モハメド・アリ」、日経、産経、東京(中日)が「ムハマド・アリ」であって、メディアのイデオロギーとの相関はなさそうだ。中日新聞*2が「ムハマド・アリ」で中日スポーツ*3が「モハメド・アリ」だったことには笑ってしまった。名古屋では中日新聞中日スポーツの両方をとっている家庭も少なからずあるだろうから、「なんだこりゃ」と呆れている方もおられるのではないか。

さて前振りが長くなった。

1974年にアリが無敗だったフォアマンを破った「キンシャサの奇跡」に熱狂したのは私の亡父だった。私はその時初めてこのボクサーの名前を認識した。この時、テレビがアリの名前をどう表記していたかは忘れた。ただ、当時家でとっていた毎日新聞の「ムハマド・アリ」の表記に、「なんだこりゃ」と思った記憶は鮮烈だから、「モハメド・アリ」か「モハメット・アリ」か、さもなくば「マホメット・アリ」だったかもしれない。そうでなくても毎日新聞チャップリンを「チャプリン*4と表記するなど、外国語の固有名詞の表記に強いこだわりがあったことには、子ども時代の1971年に家の購読紙を朝日から毎日に替えた直後に気づいたのだった。ただそうした毎日新聞社のこだわりの伝統は最近では希薄になっているようにも思う。

昔話に戻って、1976年の「アリ対猪木・格闘技世界一決定戦」だったかは見ていたが、その中身に「なんだこりゃ」と思って試合の全部は見なかったように記憶している。

しかし、アリの防衛戦は日本のテレビでも必ず中継された。確か無名の選手に負けたあと雪辱したんだったよなと思い、その相手の名前を思いだそうとしたが、「スピ」までは思い出せたものの、なかなかそのあとが出てこなかった。強く思い浮かぶ固有名詞である「スピルバーグ」に邪魔されてか、「スピルマンだっけ、いや違うなあ」といった具合に思い出せず、検索語「1978 アリ 防衛 失敗」でやっとレオン・スピンクスの名前にたどり着いた(Wikipediaの「モハメド・アリ」の項を見ればすぐにわかったはずのことではあったが、頭が回らなかった)。

この当時、アリの防衛戦と具志堅用高の防衛戦をよく見ていたが、両者が負けたのは同じ頃で、同じように格下の選手に負けたかのように記憶がねじ曲がっていたのだった。アリの訃報をきっかけに調べてみて、具志堅用高が地元・沖縄で行われた防衛戦で負けたのは、アリが負けた3年後の1981年であって、相手は格下ではなくその直前の防衛戦で苦戦したペドロ・フローレスとの再戦だった。つまり、具志堅は一度苦しめられた強敵と再びまみえて敗れていたのだった。私はアリにはそれなりの思い入れはあったが、具志堅にはさほどの思い入れはなく、惰性で防衛戦を見ていただけだった、だから記憶がねじ曲がったということなのだろう。

引退後のアリはパーキンソン病を長く患ったが、パンチドランカーではなかったかと思う。関連して調べてみると、かつてアリを破ったレオン・スピンクスも認知症を患っているという。彼もまたパンチドランカーではなかろうか。つまり、ボクシングという競技そのものに問題があり、このままスポーツとして存続させるべきではないのではないかと今では思っている。かてて加えて亀田三兄弟のような胡散臭い選手が現れた。TBSに思いっ切り後押しされた彼らが悪評を買い始めたのは10年くらい前のことだったかと記憶するが、私はそのずっと以前の、渡嘉敷勝男がルペ・マデラと4試合を戦ったあたり(1982〜83年)から、ボクシングは大相撲(千代の富士八百長疑惑が週刊ポストに書き立てられていた)と同様、嘘くさい競技だよなあと思うようになっていたので、亀田三兄弟に対しては額に青筋立てて怒る気にもなれなかった。

そんな具合にボクシングに幻滅して久しい私ではあるが、ムハマド・アリの死去を悼む気持ちはある。心より故人のご冥福を祈る。