かねてから病状の悪化が伝えられていた大橋巨泉が死んだ。
芸能生活の初期において「野球は××、司会は巨泉」とかいう気に食わないフレーズで売っていた巨泉は、確か『××の星』というアナクロ・スポ根漫画(アニメの軍歌調の主題歌がこの漫画の本質を象徴している)にも実名(というか芸名)で登場していたのではなかったか。
ただ私は、巨泉が「野球は××」と口にしたのをリアルタイムで見たことはない。それどころか、1974年に××が10連覇を逃した時、毎日新聞のインタビューで××を批判するコメントを発したのではなかったか(これはうろ覚えであり、別人だったかもしれないが)。巨泉で最初に覚えているのは、2011年に亡くなった前田武彦と組んだ日本テレビの『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』だった(2シーズン放送されたが、1970年10月から翌年3月にかけて放送された2シーズン目を見ていた。4月から9月までの放送がなかったのは、××戦プロ野球中継の影響だろうか)。
調べてみると、奇しくも巨泉は前武と同じ82歳と4か月前後で亡くなっていた。前武は82歳4か月と2日だったが、巨泉は82歳4か月に11日足りなかった。ただ、巨泉は2005年以降はずっと癌と闘病していたという。
巨泉は晩年では『週刊現代』の連載などでの反自民の言論で知られ、2001年には民主党公認で参院選に当選したものの翌年民主党の「ムラ体質」に嫌気が差したとして議員辞職したことがある。しかし巨泉は、1973年にテレビ番組で共産党候補の当選(参院大阪選挙区補選における沓脱タケ子の当選)にバンザイをしたとして反共右翼で鳴らしたフジサンケイグループのドン・鹿内信隆に干された前武や、クイズダービーの共演者で1977年に巨泉も名を連ねた革新自由連合に加わって参院選に立候補したことによって番組を降板した鈴木武樹(1934-1978。革自連立ち上げの集会で天皇制廃止、日本連邦共和国成立を叫んで巨泉や青島幸男をびびらせたという*1。参院選落選の翌1978年に癌のため43歳の若さで急逝)らほどの筋金入りではなく、そのリベラルぶりにも若干括弧をつけたくなるところがあり、手放しでは賛辞を呈する気にはならない。
とはいえ、巨泉には2001年の国会において当時の民主党代表・鳩山由紀夫が小泉純一郎に(小泉が言うところの「抵抗勢力」と闘う?)「共闘」を提言するなどの惨状を呈していた民主党にブチ切れて議員辞職する程度の反骨精神は持ち合わせていた。かつて微温的との印象を持っていた巨泉でさえ相対的に異端になるくらい、90年代以降の日本の政治状況の右傾化は著しかった。以下Wikipediaより引用する。
アメリカ同時多発テロ事件を非難する国会決議には、「アメリカを支持する」との文言を理由に民主党でただ1人反対。また、インド洋への自衛隊派遣に伴う事後承認にも反対するなど、短期間でいわゆる「造反」を連発した。また、8月6日の民主党両院総会では、巨泉は鳩山に「社会主義インターナショナルに加盟しセンターレフト(中道左派)の党としての性格を鮮明にせよ」と迫ったが、鳩山から「民主党のコンセンサスではない」と却下されている。
2001年の同時多発テロの直後、日本においてもアメリカ支持一辺倒の空気が充満した言論状況は異常の一語に尽きた。当時、姫路のジュンク堂で見つけたノーム・チョムスキーの新刊をむさぼるように読み、やっと共感できる言論に出会えたと感激した記憶がある。あの巨泉でさえ異端になる異様な空気は、のちに2005年の郵政総選挙でも再現された。あの郵政総選挙で、それまでの選挙区だった兵庫を離れて東京10区に落下傘で降りてきた「刺客」の落下傘候補をめぐって、今もあの時の異様な空気を再現するかのような嫌な状況ができあがりつつある。巨泉にはそういった異常な流れに押し流されない程度のまともさはあった。
その芸名が、東京・下町の生まれの巨泉がファンだったという「××」からとられたことにはやはりどうしても引っかかるが、それはひとまず棚に上げて、故人のご冥福を心よりお祈りする。