kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「絶対王政化する日本」(『読む国会』より)

これまで加計学園問題については、知識がないことに加えて、どうしても森友学園事件に関心を奪われてしまうこともあってほとんど書いていないが、最初に少し触れた時にいただいたコメントをそのうち日記の本文で紹介しようと思って果たせないうちに2か月近くが経ってしまったのだった。下記は3月3日にいただいたコメント。投稿下さったのは、あるいは岡山理科大に関係されている方だろうか。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20170303/1488499543#c1488549050

tomoclick 2017/03/03 22:50

獣医学部の新設は、そんなに獣医が不足しているか?って話題になりましたよ。畜産や屠畜、殺処分関係に行きたくなくて(そのほとんどが公的であり、公務員叩きのせいもあるのか)、そこの不足問題の根本的解決には決してならない。


加計学園と森友学園を巡って、政府が答えるべきたった二つの質問 - 読む国会(2017年4月27日)より

かねてより、行政府はこの問題に対して、すべての証拠と記録を国民のもとにオープンにし、かつ説明責任を果たさなくてはいけない、と書いてきた。

民主主義の最低条件は、(外交や防衛などを除いて)全てのプロセスがオープンになり、政府が適切な説明責任を果たすことである。

では、政府が果たすべき説明責任とはなんなのだろうか?

森友学園の問題に対しては「なぜ大阪音大ではなかったのか?」
加計学園の問題に対しては「なぜ京都産業大ではなかったのか?」

重要なのは、この二点だ。これに答えるだけでもいい。しかし、未だ政府の側から納得の行く説明は出ていない。

(中略)

今治市における国家戦略特区に関しては、「一校だけ」「獣医学部がない場所」という極めて限定的な規制緩和を行った時点で、恣意的な運用がなされているのではないか?という疑念が生じる。

そして、なぜ今治に?という疑問に対して、納得の行く説明はまったくない。


さらに、広島・今治は「観光・教育・創業などの国際交流・ビッグデータ活用特区」である。獣医学部とは何も関係がない。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/dai18/shiryou2-1.pdf

そもそも、「一校だけ」、しかも四国という限られた地域に付与するとなれば、以前から何度も申請してきた加計学園くらいしか申請できないというのは予期できるだろう。

そうすると、これは特区というより特定の学校法人に対する利益供与でないか、とすら疑われる。

だからこそ、「なぜ京都産業大学ではなかったのか?」という疑問に対して、政府は明確に答える必要がある。


政府は明確な判断の理由を説明すべき

「なぜAでなくてBであったのか」その理由を国民に伝えるのが説明責任である。説明責任とは公平性の担保の最低条件だ。

だから、行政では細かい発注でも、一定金額以上なら指名競争入札を行う。それでも未だに、随意契約や特定随意契約などで、癒着や談合は問題になる。

決定プロセスが閉鎖的に行われれば、そこには(意図的であるかは別にして)談合や癒着が発生する。自由に発注できるなら知り合いや友人に発注したいと思うのが人情だろう。

しかし、億単位のレベルで、しかも堂々と総理大臣の知己や、総理夫人の友人に対して、このような不可解な形で便宜が図られているのは驚くべきことだ。


森友学園加計学園の問題とは、実は極めてシンプルである。「なぜその選択をしたのか」ということを行政が説明すればいいだけだ。我々国民は、もしそれが出来ないなら汚職事件だ、と判断するほかない。なぜなら、それが説明できる形で行政を執行するのもまた、政府の責任だからだ。

例えば、随意契約にして「いや、公平に一番いいところを選んでいますよ」と言われたら立証しようがない。だから、随意契約は極力避けるのが行政のルールである。

重ねていうが、説明責任を負っているのは政府である。説明責任が果たせない形で特定の事業者に便宜が図られていれば、それは汚職である。


絶対王政化する日本

民主主義とは、権力を集中させないよう、かつ恣意的に権力が使われることを避けるための仕組みである。あくまで総理大臣は、国民から権力を付託されているだけであり、その権力は国民に対してオープンな形で行使されなくてはいけない。

しかし、残念なことに世襲制の日本政治においては、国民から選ばれて権力が付託されるという色彩よりも、議員や政治家に選ばれた人間が権力を継承する、という色彩のほうが強い。

もし仮に、安倍総理大臣の権力が国民の付託のもとにあるのではなく、一部政治団体や自分の一族、あるいは党内のパワーバランスなどによって付託されているとすれば、国民に対して説明責任を果たす必要はないだろう。

(動画の引用省略=元記事をご覧下さい)

この動画を見ると、安倍総理大臣からは、国民に意思決定プロセスを説明し、アカウンタビリティを担保するという意識は見受けられない。そこにあるのは、国会においてなお、自分の友人を擁護しようとする一人の男性の姿である。


公平性のない国家は必ず崩壊する。誰もチェックしなければみんなが勝手に金を使うからである。権力者のお眼鏡にかなった一部の人間だけが肥え太り、国民は貧しくなっていく。

公平な国家を未来に残すために、我々一人一人が、この奇怪な状況に対して声を上げ続けなくてはいけない。

絶対王政化する日本」とは、本当にその通りだと思う。安倍昭恵がしばしばマリー・アントワネットにたとえられるのもむべなるかな(エレナ・チャウシェスク江青にもたとえられたが)。どうしようもないのは、そんな安倍昭恵に対して「リベラル」人士たちまでもがシンパシーを抱いてしまっている日本国民の姿だ。