kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

小田嶋隆「司令官たちの戦争、僕らの働き方改革」の分析にはリアリティが全くない

下記小田嶋隆氏の分析は、括弧のつかないリベラルの人の間にも賛同者が多いようだが、私は決定的に間違っていると思う。

以下、日経ビジネスONLINEより。

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/022200132/ より

司令官たちの戦争、僕らの働き方改革
小田嶋 隆
2018年2月23日(金)


 今国会は「働き方改革国会」と位置づけられているのだそうで、なるほど、進行中の国会審議では、働き方改革関連法案をめぐる議論が行ったり来たりしている。

 現今の主たる争点は、政府がこれまで裁量労働制で働く人の労働時間について「一般労働者より短いデータもある」としていた国会答弁を、安倍晋三首相が撤回したところだ。

(中略)日刊ゲンダイの記事では、

《−略− 野党6党が国会内で開いた合同会議では、厚労省の担当者が「異なるやり方で選んだ数値を比較したことは、不適切だった」と頭を下げた。 −略−》

 ことになっているが、これはアタマを下げればそれで済む問題ではない。

 ベースとなる説明のデータが「誤用」だったことがはっきりした以上、法案そのものをリセットするか、審議をゼロに戻すか、でなければ、今国会での法案の成立そのものを断念するのがスジだ。

 しかし、たぶんそんなことにはならない。
 法案は、間違いなく成立する。
 私はそう確信している。

 私が法案の成立を確信する理由は、表向きには、与党勢力が衆参両院においてともに過半数を超える議席を確保しているからなのだが、私の内心を圧迫している理由は、実は、それだけではない。

 個人的には、目先の議席数の多寡よりも、そっちの理由の方が本質的だと考えている。
 今回は、その話をする。

 私がなんとなく観察している範囲では、国会の議席数とは別に、世論は、政府の働き方改革の内容、というより気分を、大筋において支持している。

 気分というのは、働き方改革働き方改革ならしめている設計思想の部分というのか、「日本の企業の収益力を高めるためには、労働者にある程度泣いてもらわなければならない」といった感じの、「割り切り」ないしは「切り捨て」の部分に、思いのほか広範な支持が集まっているように見える、ということだ。

 「だってさ、日本の企業の国際競争力を高めるためには、労賃を節約する施策が必要なわけだろ?」
 「そりゃ、企業の収益力の向上には人件費を抑えることが一番の近道なわけだし」
 「だとすれば、安価で優秀な労働力の確保を最優先にした施策を打ち出すのは当然だよな」

 てな調子でこの法案を受けとめている人たちが日本人の多数派を占めている(ように見える)ということだ。

 なぜ、労働者である自分たちの権益が削がれるかもしれない法案に平気な顔で賛成できるのか、そこのところの理屈は実は、いまのところはまだ、うまく解明できていない。

実はここで小田嶋氏は早くも白旗を掲げているのだが、ここから氏独自の、そして私が全く感心しなかった仮説が始まる。

 ただ、一介の労働者に過ぎない多くの日本人が、なぜなのか、国策や日本経済を語る段になると「経営者目線」で自分たちの暮らしている社会を上から分析しにかかっていることは、明らかな事実だったりもする。

 とすれば、お国の打ち出す施策が経営者にとって望ましい方向に近似して行くことは、これはもう自明の理だ。

 昔からそうだが、男の子が戦争の話をする時には、司令官の目線で語ることになっている。

 どこどこの戦線を打開するためには、これこれの戦力をこんな手順で投入してとかなんとか、夢想の中の戦争は、常にマクロの視点からの戦略として発想され立案される。そして、ゲーム盤の上のストラテジックでスリリングで、血湧き肉躍るヒロイックなストーリーは、あるタイプの人々に常に変わらぬ陶酔をもたらすのである。

 もちろん、現実に戦争が起こってみれば、ほとんどすべての兵士は盤上の一個のコマになりはてる。

 が、具体的な肉体としてミクロの戦線に放り込まれ、物理的な泥沼の中で火薬と鉄と血と涙にまみれたまま転がされる一個の肉体たる兵士の気持ちなど、知ったことではない。戦争を夢見る人間は、兵隊の夢なんか見ない。国家の戦争を夢見る人間は、ほかの誰かが死ぬ夢と、凱旋パレードの夢だけを選択的に反芻することになっている。

ここまではその通りだろう。私も「信長の野望」といったゲームで遊んだことがある。ただ、実際には武士たちが死ぬんだよなあ、とは始終思っていたが。しかし、それに続く文章には論理の飛躍がある。これに異を唱えたい。

 おそらく、国策や企業戦略についても事情はそんなに変わらない。

 夢見がちな人々が娯楽として思い浮かべるのは、ミクロな労働者の個人的な懊悩や、貧困にあえぐ失業者の陰にこもった失意や、日々の暮らしに疲弊した非正規労働者を襲う無力感ではない。彼らが繰り返し思い浮かべては頬を緩めるのは、国際社会を舞台にイノベーションを追求する若きアントレプレナーの野望と成功であり、画期的な改革案を胸に会議に臨む架空のビジネスエリートのスチャラカ出世物語だったりするのである。

 ……何を言いたいのか説明する。

 21世紀にはいってからぐらいだと思うのだが、私の目には、この世界のなかで起こるさまざまな出来事を「経営者目線」でとらえることが優秀な人間の基本的マナーですぜ的な、一種不可思議なばかりに高飛車な確信が広がっているように見えるのだ。

 その「経営者目線」は、別の言葉で言えば、「勝ち組の思想」でもあるのだが、経営でも政策でも戦略でも受験でも、自分が労働者であるよりは経営者であり、負け組であるよりは勝ち組であり、とにかく勝っている側に立って考えるべきだとする前提が、あまたの自己啓発書籍の教える勝利の鉄則だったりするということだ。

 で、そういう、決して負けを想定しない勝ち組理論の中では、弱い者や貧しい者や運の悪い人間や恵まれない育ちの仲間は、「自己責任」というよく切れる刀で切って捨ててかえりみないのが、クールな人間の振る舞い方だってなことになっている。

 一番短い言葉で言えば、「ネオリベラリズム」ないしは「市場原理主義」ぐらいの言葉に集約できる思想なのかもしれない。ともあれ、こういう、本来なら本当の勝ち組の人間を想定したバカなラノベの主人公が本文中で生存者バイアス丸出しでしゃべり倒すにふさわしい軽薄極まりない思想が、どうしてなのか若い世代やイケてるつもりの連中の合言葉になってしまっているようにみえる。

 この事態に、私はいまだにうまく適応できずにいる。
 「勝ち残ったオレは優秀だ」
 「優秀なオレが勝ち残ったんだから、この競争は公正だ」
 「優秀なオレが勝ち残る市場をビルトインしているわけなのだからこの世界はフェアで正しくて美しい」
 「負けた人間は自分の能力不足で負けただけなのだからして、同情には値しない」
 「負けた人間に温情をかけるのは、その人間の弱さを助長する意味でかえって残酷な仕打ちだ」

 と、乱暴に要約すれば、こんな感じの、中二病どころか小学校5年生の実写ジャイアンみたいな思想が蔓延しているのだとすれば、裁量労働制が支持されるのは当然の流れというのか、時代の必然と申し上げねばならない。

この手の「経営者目線」の押しつけは、何も今世紀に入ってから始まったものでも何でもなく、90年代には既に感じていたし、おそらくはそれ以前からずっとあっただろう。日本経済新聞などはこの「経営者目線」を持つことを購読者に強要するための新聞だと言っても過言ではない。

しかし、2006年の「ホワイトカラー・エグゼンプションWCE)」は「残業ゼロ法案」と呼ばれて世論から強い反発を受けた。私は、少し前の記事に書いた通り、四半世紀前の1993年に半年間だけ裁量労働制下で働いた経験があったので、WCEから直ちに裁量労働制を思い出した。2006年にWCEが強い反発を受けたのに、2018年には「裁量労働制が支持されるのは当然の流れというのか、時代の必然」だという小田嶋氏の主張には、到底承服できない。

これに続く文章は、公開から時間が一定の経ったためか、登録しなければ読めない状態になったので、私は無料で全文が公開されて期間に読んだし、そのうち会員限定になるだろうと思って文章も個人的にバックアップはしておいたけれどもその引用はしないでおく。

ここでは、以下に私の感想を簡単にまとめておく。

今まで「働き方改革」、とりわけ裁量労働制の対象拡大に大きな国民的反発がなかったのは、単純に国民の多くが裁量労働制を知らなかったからだ。それだけの理由に過ぎない。実態を知れば猛反発が出てくるのは当然だ。実際、上西充子氏らの努力によって裁量労働制の実態は周知され、「定額働かせ放題」という、正しく実態を反映した言葉が広く世に知られるようになるにつれ、法案への猛反発と法案成立を強行しようとする安倍政権への批判の声が高まっている。

そんな流れなのに、何が「法案は、間違いなく成立する。私はそう確信している」だ。ふざけるな。腹が立ってならない。

こんなリアリティのない小田嶋隆氏の言説に、リベラルは惑わされてはならない。自らも興じるコンピュータの戦略シミュレーションゲームと自分自身の労働の区別がつかないほど、世の労働者は愚かではない。

なお、実際に裁量労働制の対象になろうとしている労働者からの反発の声が弱いのは、「この制度のもとで働くのが嫌なら、お前には将来がないぞ」との(経営側からの)無言の圧力を労働者が感じているからだ。何も労働者が自発的に経営者側の目線で物事を考えているからではない。私自身、1993年に半年間裁量労働制下で働いた時に、この「無言の圧力」を強く感じた。その悪印象が未だに忘れられないことを申し上げておく。