kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

総理大臣の恣意的な「7条解散」を制限するために

 「7条解散」の是非について、あるいは合憲/違憲について議論がほとんどなされず、政権やマスメディアが言う「総理大臣の専権事項」という言い方を鵜呑みにする惨状が続いているが、俳優の石田純一が異を唱えたことをコメント欄で教えていただいた。

 下記は文化放送の『斉藤一美のニュースワイド SAKIDORI!』というラジオ番組の6月25日の放送で石田が発したコメント。

 

http://www.joqr.co.jp/sakidori/2019/06/25/#052624

 

『今日のオピニオン』 コメンテーター 俳優の石田純一さんが語り下ろすテーマは「解散権は総理の専権事項か?」

憲法では、誰が、何を根拠に、どんな場合に解散権をつかえるのか明記されていません。

諸外国に目を向けてみると、ドイツは1949年の基本法施行以降「解散」は3回。フランスは5回で1997年を最後に「解散」は行われておらず、イギリスに至っては2011年の議会任期固定法で「自由な解散」が出来なくなっています。

事実上、政権や総理の都合で24回も「解散」をしてきた日本の状態は異常であり、野党を軽視 = 国会を、議会制民主主義を軽視しすぎていると喝を入れた石田さん。

昨日の三原じゅん子議員の討論からも分かるように、今の政権の態度は、他者の意見を聞く・議論を尽くすといった民主主義のスピリットが全く感じられないと語りました。

 

 『広島瀬戸内新聞ニュース』(6/28)は「7条解散は違憲」と断じる。

 

hiroseto.exblog.jp

 

そもそも7条解散が違憲
これを認めれば、それこそ、例えば「(天皇への)内閣の助言と承認」による改憲(公布)もありになってしまう。
内閣不信任案が提出されただけで、「解散」なんて、小・中学生を迷わせるから止めていただきたい。
内閣不信任案が可決されたら「総辞職か解散」だ。

 

 歴史的には、1960年に最高裁が「統治行為論」を打ち出して、7条解散が合憲か違憲かの判断を出すことを避けた。手抜きだがWikipediaから引用する。

 

 

苫米地事件 [はてなブックマークで表示]

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
 

苫米地事件(とまべちじけん)とは、衆議院解散により衆議院議員の職を失った原告・苫米地義三(とまべちぎぞう)が、任期満了までの職の確認と歳費の支給を訴えて争った事件[1]。原告の名をとってこう呼ばれる。また、判決は苫米地判決とも呼ばれる。統治行為論が大きな争点となった。

 

概要

第3次吉田内閣昭和27年(1952年)8月28日、日本国憲法第7条に拠って衆議院を解散した(抜き打ち解散)。原告苫米地義三は当時衆議院議員だったが、この解散により失職した(解散によって行われた第25回衆議院議員総選挙には立候補せず)。第7条による衆議院解散は初めてのケースであったため[2]、原告は同第69条に拠らない解散は憲法に違反すると主張した。

なおこれに先立ち苫米地は本件について最高裁判所に直接出訴したが、最高裁警察予備隊違憲訴訟の先例によって訴えを却下している。最高裁に直接出訴した裁判を第1次苫米地訴訟、任期満了までの歳費支払いを求めた訴訟を第2次苫米地訴訟と呼ぶこともあり、苫米地事件というと普通は第2次苫米地訴訟のことを指す。

判決

下級審では統治行為論を否定したが、一審(東京地方裁判所昭和28年10月19日判決)では請求認容、二審(東京高等裁判所昭和29年9月22日判決)では一審破棄、原告敗訴と結論が分かれた。

最高裁判所昭和35年6月8日大法廷判決は、衆議院解散に高度の政治性を認め、違法の審査は裁判所の権限の外にあるとする「統治行為論」(多数意見はこの用語を用いていない)を採用して違法性の判断を回避、上告を棄却した。なお、解散について合憲性判断を行い得るとし、それに従って本解散が合憲・有効であるとする少数意見がある。なお、この判決をきっかけに憲法判断は回避された状態になっている[2]

統治行為論の考え方は前年の砂川事件最高裁判決で示されているところであり、本判決の統治行為論もそれを踏襲したものと見られる。ただし、砂川事件において、最高裁判所は高度の政治性のみならず、立法裁量をも根拠として「一見して極めて明白に違憲無効であると認められ」る場合に司法審査が及びうることを示唆しており、そのような余地を留保しなかった本事件とは若干説明を異にする点には注意が必要である。

  

 7条解散=違憲、とする憲法学者は思いの外少ないようだ。たとえば水島朝穂氏は2014年に下記のように書いた。

 

www.asaho.com

 

(前略)そもそも衆議院の解散とは何か。衆議院議員の身分を任期満了前に奪う行為である。憲法69条は、衆議院内閣不信任決議案が可決され、あるいは信任決議案が否決されたときは、「十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職しなければならない」と定める。憲法7条は天皇の国事行為を10個並べており、その3号に「衆議院を解散すること」とある。解散について、憲法にこれ以外の規定はない。しかも、69条は内閣総辞職の規定で、内閣に衆議院解散権が帰属するという明確な定め方をしていないことに注意する必要がある。そこで学説上評価が分かれてくるのだが、いまは一応、7条説が通説・実例となっている。「対抗的解散」(憲法69条解散)と「裁量的解散」(7条解散)という言い方がされることもあるが、いずれにしても、憲法は、誰に解散権があるのかについて、明文の規定を置いていないのである。

だから、自明のように首相の「伝家の宝刀」という形で、首相にフリーハンドを与えたかのように聞こえる表現は妥当ではない。首相が解散権を使って、与党内部を政治的に引き締めることにも使われてきた。逆に、永田町用語で解散を意味する「重大な決意で臨む」という言葉を安易に使って、辞任に追い込まれた海部俊樹首相の例もある。

中曽根内閣の「死んだふり解散」(1986年)、小泉内閣の「今のうちに解散」(2003年)野田内閣の「近いうちに解散」(2012年)などさまざまある。特に「今のうちに解散」の身勝手については、当時新聞に、「首相人気が高止まりのうちに、落ち込んでいた経済が少し持ち直しているうちに、イラク派兵で自衛隊に犠牲者が出ないうちに、年金制度改革で国民負担の増大が明らかにならないうちに、道路公団郵政民営化の結果が問われないうちに…」解散、と書かれた(直言「今のうちに解散」)。

そこで、「今のうちに解散」のようなものは解散権の濫用ではないかという論点がある。左の写真は35年前の新聞記事で、保利茂衆議院議長(当時)の遺稿「解散権について」を紹介したものである。保利氏は、衆議院の解散が行われる場合として、(1)「議院内閣制のもとで立法府と行政府が対立して国政がマヒするようなときに、行政の機能を回復させるための一種の非常手段」、(2)「その直前の総選挙で各党が明らかにした公約や諸政策にもかかわらず、選挙後にそれと全く質の異なる、しかも重大な案件が提起されて、それが争点となるような場合には、改めて国民の判断を求める」の2つを挙げて、「特別の理由もないのに、行政府が一方的に解散しようということであれば、それは憲法上の権利の濫用ということになる」「7条解散の濫用は許されるべきではない」と説いた(『朝日新聞』1979年3月21日付)。この指摘は、69条解散に限定されるというのでなく、7条解散の慎重な運用を求めたものといえるだろう(直言「衆議院解散、その耐えがたい軽さ」)。

さらに進んで、7条解散も69条解散も憲法上許されないという主張を展開した人がいる。公明党衆議院議員(当時)飯田忠雄氏である。右の写真は『朝日新聞』1979年8月10日付「論壇」に投稿した「内閣に衆院解散権はない―法的根拠になり得ぬ憲法69条」で、保利氏の上記の論稿に触発されて書かれたものである。

「…衆議院の解散は、国民の直接選挙によって選任された衆議院議員が、自ら組織した衆議院の構成を解体することである。このような衆議院の構成に関する問題について、実質的に決定権を有する機関は、憲法が特別の明文規定をもって内閣であると指定していない現在の憲法の下では、衆議院自体である。…憲法69条は『衆議院が解散されない限り』内閣に総辞職義務を課した規定にすぎず、内閣に衆議院解散権を与えたものでも、衆議院解散か総辞職かの選択権を与えたものでもないからである。結論だが、憲法は、衆議院の解散権を内閣に与えていない。衆議院の解散は衆議院の議決を必要とする。従って休会上の解散は、憲法上あり得ない。…」

とはいえ、ドイツのように、解散のハードルを高めすぎるのも問題かもしれない。重大な政策変更が行われ、国民の信を問う必要性が出てきたとき、解散できないというのも問題だろう。ただ、日本では、解散は、本来民意を問うべき場面では回避され、逆に、政治家の都合で唐突に行われることがしばしばあった。今回の安倍首相による解散を何と呼ぶか。「アベノミクス」の失敗を含めて、安倍内閣がこの2年間で行ってきた狼藉が「ばれないうちに解散」とでも呼ぼうかと思っていたところに、高村正彦自民党副総裁が「念のため解散」と語ったということが、時事通信11月14日11時37分配信でネット上に伝播した。政策を確認するため「念のため」に解散するというのである。保利氏がいった「立法府と行政府が対立して国政がマヒする」といった事態は起きていない。国会は30日まで開かれている。そこでの審議がまともに行われなくなったのは、安倍首相が海外から「解散旋風」を吹かせたからである。

消費税増税の延期を国民に問うという理由も成り立たない。消費税増税法の附則18条(景気条項)がすでにあって、「経済状況の好転について、名目及び実質の経済成長率、物価動向等、種々の経済指標を確認し、前項の措置を踏まえつつ、経済状況等を総合的に勘案した上で、その施行の停止を含め所要の措置を講ずる」ことは折り込み済のはずだろう。先延ばしを総選挙で問うというのは筋が通らない。(後略)

 

 また、下記は前記水島氏より保守的な憲法学者である木村草太氏が2016年に発した見解。

 

gendai.ismedia.jp

 

解散権の制限を議論すべき

ここまで各党のマニフェスト自民党改憲草案を検討してきたが、そこに現れなかったもので真剣に考えるべき改憲提案が、衆院解散権の制限である。

現在の運用では、内閣はいつでも衆議院を解散でき、いわゆる7条解散を広く認める運用となっている。しかし、内閣に自由な解散権を委ねるのは、世界標準に照らして一般的ではない。政権与党に有利なタイミングを選んで行う党利党略解散など、解散権の濫用が横行するからだ。

このため、日本と同じ議員内閣制を採るドイツやイギリスでは、解散権に制限をかけている。例えば、ドイツ連邦共和国基本法では、連邦首相が連邦議会を解散できるのは、首相が提案する信任決議を議会が否決したときだけ、と規定されている。

また、イギリスでは、与党に有利なタイミングでの解散が横行したことの反省から、2011年に議会任期固定法が成立し、議会の広い合意があるか、首相の不信任決議が成立したときを除いて、下院を解散できないとされた。

この点、日本でも、解散権の濫用が指摘されることが増えてきている。小泉郵政解散は、「参議院」で法案が否決されたから、「衆議院」を解散するという筋の通りにくいものだった。

2012年末の野田内閣による解散も、民主党は選挙で大敗したものの、いわゆる第三極の選挙準備が不十分なうちの解散という面があったと指摘されている。あるいは、2014年末の安倍内閣の解散も、その理由がはっきりしないものだった。

こうした解散権の濫用について、現行憲法の解釈で、それに歯止めをかけようとする主張もある。例えば、石川健治東京大学教授は、2014年末の解散については、端的に解散権の濫用として「違憲」と評価すべきとしている(「環境権『加憲』の罠」樋口陽一山口二郎編『安倍流改憲にNOを!岩波書店所収)。

憲法学の世界では昔から、解散権の濫用を防ぐべく、解釈上の提案をしてきた。憲法の教科書を見る限り、7条解散を無制限に認めるものはほとんどない。69条解散に限定するか、国民に直接信を問う必要があるほどの緊張状態が生じた場合に限定する説が一般的だ。

しかし、そうした提案が権力者に受け入れられず、不適切な運用が続くのであれば、ドイツやイギリスのように、解散権の濫用を制限する憲法規定の導入しようと提案されることもある。もちろん、実際改憲となれば大事だから、提案の是非は慎重に吟味されるべきだ。

しかし、ここ数年の解散権の行使状況を見ていると、憲法改正を含め、議論をする時期が来ているように思う。

 

出典:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49041?page=4

 

 最後の部分は、7条解散を制限するために改憲が必要だと主張する枝野幸男に木村草太がすり寄ったものだろう。枝野が2016年に発した発言を下記に示す。

 

www.nikkei.com

 

民進・枝野氏「首相の解散権縮小を」

2016/11/24 0:26

 

民進党枝野幸男憲法調査会長は23日、さいたま市内で講演し、24日の衆院憲法審査会で憲法改正が必要な条文として首相による解散権の根拠である7条を提起する考えを示した。英国やドイツを挙げ「内閣による議会解散権を縮小しているのが世界の流れだ。変えるならここではないか。発議されたら全会一致で通ると思う」と述べた。〔共同〕

 

 日本経済新聞より)

 

 木村草太の議論に戻ると、木村は自ら「憲法の教科書を見る限り、7条解散を無制限に認めるものはほとんどない」と言っているのに、なぜ最後に枝野幸男にすり寄るかのように「ここ数年の解散権の行使状況を見ていると、憲法改正を含め、議論をする時期が来ている」と論理を飛躍させるのかさっぱりわからない。日本国憲法第7条が内閣による解散権を無制限に認めるものではないのであれば、解散権を制限する通常法を立法してもそれは違憲立法にはならないはずではないか。同じ理由で枝野幸男の「7条解散を制限するためには改憲が必要」だとする議論も理解できない。

 とはいえ、内閣(総理大臣)の解散権の制限が必要だとする認識がそもそも行き渡っておらず、反自公の政治家が「野党第一党が総理大臣に解散を要求しないのは『本気でない』からだ」などという妄論を発する現状は、木村草太や枝野幸男以前の論外のレベルであると断じるほかない。「本気でない」と言い募る批判者たちは「総理大臣の解散権」なるものを無条件・無批判で認めてしまっているからだ。

 これが現在の「反自公」陣営のレベルだ。これでは、仮に安倍政権が即刻総辞職するような好運な事態が起きたとしても、そこからの再建の道のりは気が遠くなるほど長くならざるを得ない。

 「崩壊の時代」の「崩壊」は、もうそういう段階に達してしまった。