kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

吉田徹『アフター・リベラル』(講談社現代新書)の分析を某新選組の迷走に当てはめて考えたこと

 吉田徹が昨年(2020年)講談社現代新書から出した『アフター・リベラル - 怒りと憎悪の政治』は、今月に入って読了した9冊の中でもっとも強く印象に残った本だが、新書本ではあまりお目にかからないほど気合いを入れて書かれており、読むのにかなり骨が折れたので、ましてや読書ブログに取り上げて文章を書く時間などとうていとれなかった。

 

gendai.ismedia.jp

 

 だが、時々山本太郎と彼の政党に思いを致す時、本書で展開された分析が有効だと思われるので、こちらのブログにエントリを上げることにした。

 ネット検索をかけると、著者が書いたのではないかと思われる文章がみつかった。

 

synodos.jp

 

 以下、後半部分を引用する。

 

(前略)この本では、リベラリズムの潮流を「政治リベラリズム」、「経済リベラリズム」、「個人主義リベラリズム」、「社会リベラリズム」、「寛容リベラリズム」の5つに整理している(なおこれらは18世紀以降の近代史で登場した順番にほぼなっている)。

 

詳しくはここで書ききれないが、「政治リベラリズム」は権力(王政)を統御しようとする法の支配(立憲主義)、「経済リベラリズム」は契約や商業の自由を重んじる市場主義、「個人主義リベラリズム」は個人の権利や自己決定権を尊重する個人主義、「社会リベラリズム」は経済的・社会的不平等を是正しなければならないとする社民主義、「寛容リベラリズム」は社会的マイノリティのエンパワーメントを目指す社会運動となって、18世紀から現在までの世界史を突き動かしてきたのだ。革命や帝国主義、世界人権宣言、男女平等、参政権福祉国家の発展など、様々な世界史的な発展があったが、そこには何れも多種多様なリベラリズムの源流が流れ込んでいるのだ。

 

もちろん、これに歯止めをかけようとする政治運動もあった。その際たるものが、共産主義ファシズムだった。前者は過度の経済リベラリズムを、後者は過度の政治リベラリズム個人主義リベラリズムを激しく攻撃した。その結果、戦後に生まれたのが、これらリベラリズムの自己反省として生まれた社会リベラリズムや寛容リベラリズムだった。すなわち、リベラリズムは自己修正をすることでしぶとく生存することになった。

 

もちろん、戦後に発展してきたこうしたリベラリズムの原則は、21世紀に入ってからはなおさらのこと、大きな挑戦を受けるようになった。中国などの権威主義体制、先進国の右派ポピュリズム、蔓延するアイデンティティ政治の台頭は、その証左だ。本のなかでは、先進国のヘイトクライム歴史認識問題に絡めて、こうした現象が生まれる構造的な背景を理論と事例を示しつつ、「リベラリズムの不整合」という観点から説明している。

 

ただ、それでもリベラルな精神や態度は、今後失われるどころか、より強靭なものになるだろう。それは、リベラリズムが数多ある思想や理論の中でも、もっとも融通無碍、すなわち自分の立場を修正しつつ、敵対する思想をも取り込んでいくという、包容力のあるものだからだ。だから、相手を否定することで自己を成り立たせようとする態度や思想が流通する現在において、リベラリズムこそが生き残ることになるはずだ。その「アフター・リベラル」のリベラリズムを投射する本であればと願っている。

 

出典:https://synodos.jp/info/23930

 

 以下、上記引用文をふまえながら本書の終章「何がいけないのか?」から自由な引用を行う。

 上記「リベラリズムの潮流」の第2に挙げられた「経済リベラリズム」は、市場原理至上主義や新自由主義を含む流れだ。一方、第4に挙げられた「社会リベラリズムは、「経済リベラリズム」に歯止めをかけて不平等を是正する社民主義の流れであって、同じ「リベラリズム」の語で括られていても、互いに緊張関係を持っている。

 著者によると、社民政党は60〜70年代の社会変容と冷戦崩壊を経て経済リベラリズムの極に接近する一方、個人主義リベラリズムと寛容リベラリズムへと軸足を移した。さらに1960〜70年代の社会運動は個人主義リベラリズムに基づくもので、個人主義リベラリズムは本来、集団的な抑圧からの解放によって個人を基礎にした社会への再編成を促すものだったが、そのまま寛容リベラリズムに転化することなく、代わりに同時並行して進んだ経済リベラリズムと癒着してしまったために、むしろ結社なき原子化社会を許してしまったと指摘する。

 著者は、個人リベラリズムに寛容リベラリズムを対置して均衡を取り戻すことと、経済リベラリズムに対する社会リベラリズムの優位性を回復することが必要だと主張する。

 以下は私の意見になるが、つまるところ、社会的マイノリティのエンパワーメントを目指す「寛容リベラリズム」と、経済的・社会的不平等の是正を旨とする「社会リベラリズム」を兼ね備える政治勢力が必要だということになろう。

 実は「寛容リベラリズム」は既に惰性力といえるまでに強まっていて、日本社会にも広く浸透してきていると思われる。昨年までの日本では、復古的な勢力に支えられた安倍晋三政権が7年9か月も続いてしまったために、政治の世界にはそちらの惰性力の方が強く働いていたが、安倍の再度の政権投げ出しを行うや、選択的夫婦別姓制度が政治的争点として浮上し、各種世論調査ではそれに賛成する意見が反対する意見を大きく上回るという、20年ほど前までは考えられなかった様相が現出した。これに丸川珠代が慌てふためき、男女共同参画担当相でありながら選択的夫婦別姓制度への反対を地方議員に呼びかける署名に名を連ねるなどした図は滑稽ですらある。社会に働く惰性力と政界に働く惰性力の方向性が明らかに違うので、この矛盾により溜まったエネルギーはいずれ解放され、それは自民党に大きなダメージを与えることになるに違いない。その時期までは私には予想できないけれども。

 

 山本太郎の政党についていえば、一昨年の参院選の時には、「寛容リベラリズム」と「社会リベラリズム」を兼ね備えた政党像のアピールに成功していたといえる。たとえば下記のツイートもそれを指摘している。

 

 

 これは本当にその通りで、「保守ど真ん中」を自称してきた山本太郎に対して一貫して好感を持たず、それどころか反感を抱いていた私でさえ、あの戦略(間違いなく斎藤まさしの発案だろう)には度肝を抜かれ、これは参院選で躍進するだろうと思ったし、そのことを書いた記事を弊ブログで公開もした。

 下記は上記ツイートへの反応。

 

 

 

 いやはや、まさにその通り。山本太郎は「寛容リベラリズム」を失いつつある、というよりそれが彼の地金なのだろう。

 私は一昨年8月に、山本太郎の「著書」を読んだ。その著書には、早くから芸能界で成功した山本自身が社会的強者であることを十分自覚している言葉があり、ああ、正直な人だなあと思った。

 だからあの某新選組*1には党首の暴走に歯止めをかける仕組みが必要だったのだ。それどころか山本太郎がいなくなってもやっていける政党でなければならなかった。しかし現実にあったのは党首(党代表)の独裁を許す規約だった。その規約はある程度改められたが、本質的には変わっていない。何より、党の支持者や「信者」たちの山本太郎に対する個人崇拝が度を超えている。

 2019年の参院選直後に、北海道・HBCの報道番組で吉田徹は新選組を「左派ポピュリズム政党」と位置づけた。

 

www.hbc.co.jp

 

 以下、吉田氏のコメントの一部をピックアップする。

 

吉田:誰がれいわに投票したのか?誰が台風の目にしたのか?政治学者も喉から手が出るほど欲しいデータです。今後いろんな分析が報告されると思います。ただ、れいわと立憲民主の支持基盤は重なっていて、立憲民主の支持基盤が高い地域でれいわへの得票が伸びている傾向がみられます。

 

れいわは「左派ポピュリズム」に位置付けて良いと思います。れいわは基本的に経済面では反グローバル主義を掲げ、TPPやEPAには反対です。また社会的にはダイバーシティ(多様性)を大事にしていこうという考えです。なぜ今、ポピュリズムというものが寛容されてきたのかというと、根底にはメディア不信があります。既成メディアが正しく物事を伝えていない、自分たちが感じている大事な問題を、メディアは伝えてくれないという不信感が既成政党とメディアに向けられています。それが新しい声となって表現されているのが一つのポピュリズムです。そういう意味では今回、台風の目になったれいわ新選組というのは、メディアそのものが作り上げたとも言えます。

 

出典:https://www.hbc.co.jp/news/doki-talklive/report/report_003.html

 

 問題は、多様性重視・当事者主義といった、一昨年の参院選新選組で打ち出した方向性が、どのくらい山本太郎という政治家において内発的なものだったかどうかだ。その後の同党の迷走を見ると、あれは斎藤まさしが振り付けた踊りを山本太郎が踊っただけだったのではないかとの疑念が拭えない。新選組の現在は「寛容リベラリズム」の比重が下がり、特化したかに見える「社会リベラリズム」でも消費税廃止の一本足打法といういびつなあり方になっている。同党の衆院選立候補予定者の中には、かつて旧民主・民進党長島昭久が主宰した「国軸の会」*2という極右グループのメンバーがいて、彼女は選択的夫婦別姓制度は「私にとっては3丁目5番地だ」と宣った。これでは、一昨年の参院選立憲民主党から奪った「寛容リベラリズム」を重視する層を離反させるだけだろう。

 なお吉田徹はずっと以前には衆院への小選挙区制導入を軸とした1990年代の「政治改革」や、小沢一郎をはじめとして旧民主・民進系政治家の多くが理想とした「二大政党制」を強く批判した論者だ。一定の信頼が置けると考えている。

*1:党の正式名称には弊ブログのNGワードが含まれているので「某新選組」、略して「新選組」と表記する。

*2:国軸の会のメンバーは立民や民民にもいて、小沢系と同様に新選組を含む旧民主・民進系の諸政党に広く食い込んでいる。