kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

小泉純一郎の「郵政解散・総選挙」に象徴される「劇場型政治」に「抑制」など欠片もなかった

 下記のやりとりにも言葉を失った。

 

 

 2003年の衆院選は体調が悪くて棄権した。当時の私は政治に一定の関心はあったものの、少し体調が悪いくらいで棄権する程度の無責任な有権者だった。しかしテレビの開票速報にはかじりついた。日テレ系の西日本放送(あの悪名高い平井卓也一族が支配している放送局だ)を見ていたら、日テレが出口調査から弾き出した数字が自民220, 民主203(うろ覚えだけど)とかいうとんでもない伯仲の数字だったためにテレビの画面に釘付けになってしまったのだ。結局この時の日テレの出口調査は精度がきわめて悪くて民主党は177議席止まりだった。しかし、第一党と第二党の得票率の差がわずかである場合、ちょっとした出口調査の誤差だけで議席数が20議席以上も変わってしまうことがこの例からもわかる。

 とはいえ、この選挙で民主党議席を増やしたのは確かであり、これは昨日取り上げた呟きの主が言うところの「腹八分目の勝利」そのものだろう。同じような選挙結果は、翌2004年の参院選でも再現された。

 しかし、2003年の衆院選を受けて成立した第2次小泉純一郎内閣の末期に小泉がやらかしたのは「郵政民営化政局」であり、その結末は2005年の衆院選、いわゆる「郵政総選挙」での自民党圧勝」だった。2003年衆院選や2004年参議院選挙での民主党の「腹八分目の勝利」は政権交代になどつながらなかった。

 

 

 まさか!!!

 

 あれほど酷い「暴走政治」を、それまで私は見たことがなかったよ!!!!!

 

 私は2006年からブログで政治のことを書くようになって今年で丸15年になるが*1、あの2005年8月の郵政解散と翌月の郵政総選挙ほどひどい衝撃を受けたあげくに政治に絶望を感じたことはなかった。小泉純一郎は「超えてはならない一線」をいとも簡単に超えてしまったのだ。

 今も忘れられないが、投票日前日の9月10日、私は高松市の某家でしたたかに飲み続けて泥酔した。飲み会の席で、大学の経済学のセンセイまでもが「郵政民営化」に迎合する発言をしたのに切れてしまったのだった。結局終電を逃してしまい、そこから四、五十分かかる自宅まで徒歩で帰ろうとしたが眠気に負け、しばらく路上で寝てしまった。目を覚まして早朝に帰宅した時には新聞が既に配達されていたが、朝日新聞の社説に小泉を賛美するともとれるような文章が掲載されていたのを見て自分の正気を疑った。既に投票日になっていたが、一日中ひどい二日酔いに悩まされた。しかし2年前とは違って、夕方になってからではあるが、重い体を引きずって投票所に行った。だが選挙結果は惨憺たるものだった。開票速報を見ながら呆然としていた。

 小泉のあの「劇場型政治」に「抑制」など欠片もなかった。選挙後、自民圧勝の反動からか、マンションの耐震強度偽装事件とライブドア事件が起きたが、前原誠司が代表を務める民主党永田寿康の「偽メール事件」で自滅するなどして、言論状況は死んだようになり、小泉が事実上後継候補の本命としていた安倍晋三の次期総理大臣が必至の状況となった。ことここに至っては、微力ではあっても自ら意見を発信するしかないと考えて、ブログで政治について書くようになった。当時同じようなきっかけでブログを始めた人たちは少なくなく、2006年にやっとこさ重い腰を上げた私など後発組だった。

 おそらく「りっけんナオ」氏は2005年当時には政治に関心をお持ちでなかったのではないか。当時から政治に関心を持っていたなら「今よりは、酷い暴走政治では無かった」とか「あの時の自民党はまだ抑制が効いていました」などと書けるはずがないと思う。

 

 

 概ね同感だが、私なら「やや」を省いて「能天気に過ぎる」、あるいは「あまりにも能天気だ」と書くところだ。今の菅義偉やその前の安倍晋三の政権も確かにひどいが、第2次小泉政権のひどさは菅や安倍に優るとも劣らない、いや劣るとも優らないというべきかもしれないが、小泉はそのひどさにおいて安倍や菅に一歩もひけをとらないトンデモ政治家だった。

 そして、3人のうち時期的に一番早かったのは小泉政権だし、小泉のすぐあとが第1次安倍内閣だったから、小泉純一郎こそ「安倍菅」の生みの親だと認識しなければならない。小泉の罪は文字通り万死に値する。

*1:そういえば2006年の今頃、確か6月5日だったかに安倍晋三統一協会系の集会に祝電を送った件が、ブログで政治について書き始めて "AbEnd" なる造語を編み出すなどしたきっかけだった。