北京五輪の「外交ボイコット」に関して、これを共産党が率先して主張したこともあって、自民から共産までこの方向(北京冬季五輪自体に選手は派遣するが、政府関係者は派遣しない)で突き進むようだが、それで良いのかは大きな疑問だ。少し前にも書いたが、私は中国の「無毒化」に向ける方向性を模索してもらいたいと考えている。
ここでは少し前(12/13)醍醐聡氏のツイートを引用する。
①人権抑圧への制裁の意味から北京オリンピックの「外交的ボイコット」が叫ばれている。人権に国境はないと考える私は「内政問題」と突き放す中国の常套句に無論、与しない。しかし、政府関係者を派遣しないことを「外交的ボイコット」と喧伝する必要があるのか?対中関係をいっそう悪化させるだけだ。
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) 2021年12月13日
② 日本では自民党から共産党まで「外交的ボイコット」で足並みを揃えた。
— 醍醐 聰 (@shichoshacommu2) 2021年12月13日
しかし、外交が膠着している時に、ピンポン外交が好例のように、文化・スポーツ等の分野で交流と親睦を深めるのに水を差す喧伝をするのは愚策だ。オリパラ招致といい、天皇即位の賀詞といい、日本では「全会一致」は胡散臭い。 pic.twitter.com/E6ByyVCA7T
上記ツイートで言及されている「ピンポン外交」は、1971年に名古屋で行われた世界卓球選手権に中国選手団が6年ぶりに派遣された後、中国が欧米の卓球選手たちを時刻に招くなどしたことを指す。当時の中国は文化大革命(文革)のさなかで、その異常さは現在の中国よりももっとずっとひどかった。中国の卓球選手たちも、1965年を最後に国外に派遣されることはなかった。アメリカがその中国との外交を正常化しようとしたのは、ベトナム戦争の行き詰まりを打開するためだった。そのように高校の世界史の授業では教えられている。
世界史用語解説 授業と学習のヒント
米中国交正常化
1971年のキッシンジャーの中国訪問から始まった米中国交回復の動きは、72年のニクソン大統領の訪中を経て、79年のカーター大統領の時に実現した。
1970年代に、それまで東アジアにおける共産政権としての中華人民共和国を敵視する政策を続けていたアメリカの外交方針が大きく転換した。米中国交回復の動きは、ベトナム戦争の行きづまりを打開しようとしたニクソン大統領の側近キッシンジャーによって極秘裏に着手され、1971年の中国訪問から始まり、1971年7月15日に、来年2月のアメリカ大統領ニクソンの中国訪問が発表され世界を驚かせた。ニクソンの訪中は1972年2月21日に行われ、毛沢東と会見、米中共同声明(上海コミュニケ)で相互に相手国の主権を認め、平和共存五原則に基づく国交を開くことで一致した。
米中の正式な国交回復
1972年には米中双方による事実上の相互承認が行われたが、正式な国交正常化ではなかったので、さらに両国の協議が続けられ、1979年1月1日に鄧小平が中国の要人(副主席)として初めてアメリカを訪問、カーター大統領との間で米中の国交正常化で合意された。
台湾問題の解消
この交渉では台湾問題が最も厳しい交渉となったが、結局アメリカは台湾からの駐留軍を撤退させる代わりに、武器援助は続けることで妥協が成立した。その結果、アメリカは台湾政府(中華民国)と断交し、1980年に米華相互防衛条約が失効した。これで中国の建国以来の脅威となっていた台湾海峡危機は解消されることになったが、21世紀になって中国の大国化が顕著になった結果、再び緊張が生じている。
中国の習近平による強権体制が悪質きわまりないことは当然だが、中国との緊張をひたすら高めようとすることもまた、あまりにも愚かだと思う。