kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

水島新司死去

 水島新司が死んだ。来るべき時が来たという感慨。

 最初にブレイクしたのは『男ドアホウ甲子園』(1970〜75)だったという。よく『少年サンデー』で立ち読みしていた。藤村甲子園が最後阪神タイガースに入団し、王だか長嶋だかを打ち取っていた。当時はプロ野球が出てくる漫画といえば主人公の所属球団は読売と相場が決まっていたので新鮮だった。

 しかし私がはまったのはこの作品ではなく、妹が友達から借りてきた『ドカベン』だった。やはりこの作品の思い出が強い。最近、といってももう6年前の2016年になるが、日本シリーズ第3戦で大谷翔平が悪球を狙ってサヨナラヒットを打ったことをヒーローインタビューで公言した時に連想したのが岩鬼正美だった。

 また一時期『ビッグコミック・オリジナル』を読んでいたので『あぶさん』も思い出深い。水島新司野村克也に好きな球団はどこかと聞かれて、セは阪神、パは南海だと答えたら「好きな球団は一つでええ」と言われて以後南海一筋になったというが、その南海ホークスが描かれた。『あぶさん』で真っ先に思い出すのは、1985年早々に26歳で早世した久保寺雄二を悼んだ「悲しみを乗り越えて」だった。

 南海といえば水島の漫画からあだ名の「ドカベン」をもらった香川伸行が在籍した球団でもある。その香川も2014年に52歳で亡くなった。香川の戒名は「訓明院球道伸行居士」だそうで、『ドカベン』の明訓高校と『球道くん』からとられている。そういえば阪神タイガースが1985年に優勝した時の抑えの切り札だった中西清起のあだ名が「球道くん」だった。中西の姓が漫画の主人公と同じことからついた。1970年代から80年代にかけて、水島の野球漫画は一世を風靡したといえる。それは悪しき「読売中心史観」から脱却するものではあったが、甲子園の高校野球を神格化するというデメリットもあったことは否めない。

 水島新司高校野球漫画人気の頂点は1979年頃だったのではないか。今でも思い出されるのは、1979年8月17日に「ドカベン今日散る!」と銘打たれた広告が、電車の車内中吊りやスポーツ紙などに大々的に打たれたことだ。『ドカベン』の明訓高校は何年にもわたって無敗を続けていたのが、この日発売された『少年チャンピオン』でついに負けたのだった。

 

 

 香川伸行が属する浪商が徳島の池田高校に敗れたのはその3日後だった。実はその後記憶がねじ曲がり、漫画でドカベンが散った日に浪商も負けたと思い込んでいたのだが、調べたところ漫画のドカベンが負けた日には浪商は広島商業に9対1で勝っていた。浪商が負けたのは3日後の準決勝であって、この試合の動画を確認したところ、香川はこれも私が思い込んでいた四番打者ではなく七番打者だった。強豪校とはいえ高校野球の七番打者がプロ入りして460安打、78本塁打を記録したとはよくやった方かもしれない。それとも投打の要は強打者でも下位打線に置くという監督の方針だったのかどうか(牛島和彦も九番打者だった)。

 一方、1982年に早実荒木大輔(のちヤクルト)を粉砕した池田高校はこの頃から「大物食い」だったようだ。なお池田高校が選手11人で出場して準優勝した1974年選抜高校野球の決勝戦を私は甲子園の外野スタンドで観戦していた。

 このような背景とともに思い出される水島新司は、1970年代から80年代にかけての野球人気を盛り上げ、一時代を画した漫画家だった。