kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

現在の立民は「劣化版自民」で新選組は「劣化版維新」(コメント欄より)

 本多勝一『アムンセンとスコット』朝日文庫版(2021)に付けられた山口周の解説文について昨日朝に下記ブログ記事を公開したが、その後も山口氏の指摘について考え続けていた。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 要するに、やるべきことがわかっている場合には上意下達の軍隊的組織で効率的にことを運ぶことが有効で、目的を達成するために何をやれば良いかがわからず、まかり間違えば大変な目に遭うような状況で求められるのは知恵の結集であって、その時には下の意見を汲み上げることのできない組織は適さないということだ。

 上記リンクの記事には引用しなかったが、山口氏の指摘の中でもっとも印象に残ったのは2018年に氏が「東洋経済オンライン」の記事に書いた航空機事故の例だ。以下に引用する。

 

toyokeizai.net

 

なぜ、機長のほうが副操縦士より事故が多いのか?

 

この「比較相対化」のひとつとして、オランダの社会心理学者、ヘールト・ホフステードが紹介した「権力格差」というキーコンセプトを例にあげてみましょう。

皆さんもよくご存じのとおり、通常、旅客機では機長と副操縦士が職務を分担してフライトします。副操縦士から機長に昇格するためには通常でも10年程度の時間がかかり、したがって言うまでもなく、経験・技術・判断能力といった面において、機長は副操縦士より格段に優れていると考えられます。

しかし、過去の航空機事故の統計を調べると、副操縦士が操縦桿を握っている時よりも、機長が操縦桿を握っている時のほうが、はるかに墜落事故が起こりやすいことがわかっています。これは一体どういうことなのでしょうか?

この問題は、組織というものが持っている、不思議な特性が現れています。組織を「ある目的を達成するために集められた2人以上からなる集団」と定義すれば、航空機のコクピットというのは最小の組織であると考えることができます。

組織の意思決定のクオリティを高めるには「意見の表明による摩擦の表出」が重要です。誰かの行動や判断に対して、他の誰かが「それはおかしい」と思った際に、遠慮なくそれを声に出して指摘することが必要なわけです。つまり、航空機のコクピットにおいては、片方の判断や行動について、別の片方が反対意見を遠慮なく言える、ということが重要になるわけです。

さて、副操縦士が操縦桿を握っている場合、上役である機長が副操縦士の行動や判断に対して意義を唱えることはごく自然にできることだと考えられます。一方、逆のケースではどうでしょうか? 機長が操縦桿を握っている際、目下である副操縦士は機長の行動や判断に対して反対意見を唱えられるでしょうか? おそらく、なんらかの心理的抵抗を感じるはずです。そしてその心理的抵抗から、自分の懸念や意見を封殺してしまった結果が、「機長が操縦桿を握っている時のほうが、事故が起こりやすい」という統計結果に出ていると考えることができます。

 

出典:https://toyokeizai.net/articles/-/224981

 

 困難な局面においては×××新選組のような独裁的な組織、あるいは共産党のような上意下達の徹底した組織はリスクが大きいということだ。前者はもうどうしようもないが、後者に対して結党100周年を迎えて「民主集中制」の見直し論が強まっているのは故なきことだと考える。

 また、本来そのいずれでもないはずの立憲民主党において、代表の泉健太が用意周到に下準備を重ね満を持して、2017年に前原誠司細野豪志らが志向したであろう方向に党の政策を大きく転換(右旋回)させたことに対して、希望の党に靡かなかったはずの党の実力者を初めとして、5年前の立民結党に熱狂した人たちまでも泉執行部に異を唱えない現状は、私には異様としか思えない。彼らに×××新選組山本太郎を非難する資格があるのだろうか、同じ穴の狢ではなかろうかと思う。

 以上を踏まえて弊ブログの下記記事にいただいた非常に印象的なコメントを紹介する。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 匿名意見

「言うべきことを言わずに権威に盲従すべきでない」というkojitakenさんのご意見はその通りなのだけれども、suterakusoさんの指摘するように、善悪正誤を見極めて正しい判断を導くべく議論をすると構成員には大きな心理的負担がかかる。単純で常識的なことだと思います。
 そして、そのような心理的負担が集団の結束を妨げるのであって、人のまとまりを維持するためにはこれに対応しなければならないというのも単純で常識的な事実だと思います。
 そして、何時いかなるときにも、僕を含めた日本国民が「まあまあ、固いこと言わずに」、「あの人の言うことだから聞いておこう」、「これ以上の議論は不要、異論を言うなら出ていけ」という態度をもって人のまとまりを維持してきたということも、読書記録を含めたkojitakenさんの一連の記事が描出してきたことであると思います。
 問題はもうこのようなことを続けている余裕が日本には無い、ということだと思いますが、単純な問題こそが最も重要で、かつその解決が困難であるということも本当は皆、知っていると思います。
 権威主義を拒絶するリベラルなら、「現代の日本の置かれた状況を把握しつつ、自らの価値観にしたがって課題を設定し、解決の指針を示す」ことを行動指針としつつ、議論を重ね、人のまとまりとしての最善の意思を練り上げていくべきだと思います。これもkojitakenさんが再三指摘しているとおりです。
 そのような観点から見るときには、現在の立民が「劣化版自民」であることは明らかで、新選組が「劣化版維新」であることも明らかだといえるように思います。そして、社民には力がなく、共産の民主集中制は僕の信条とは相いれない。
 ですので、私は昨秋、岸田自民党に投票したことは悔いてはおりません。しかし、すべきことはしないといけないので、酒場などで、中小企業の顔見知りなどと「いま自分たちは何に困っているか、自公が我々に何をしてきたか、誰が我々に最善の利益をもたらすのか」を話していこうとおもっています。
 ちなみに、私は「自己責任」論は否定します。細部はともあれ、大局的に見れば、中小企業、低賃金労働者ほど自らの心身を酷使してその生存に工夫を凝らしている。霞が関経団連こそが「責任」を取らなければならないし、彼らが自ら責任をとらないのであれば選挙によって取らせなければならない。

 

 現在の立民は「劣化版自民」で新選組は「劣化版維新」、しかし社民には力がなく共産の民主集中制は受け入れられない。大いに納得できるご意見です。

 選挙の選択肢についていえば、例えば大阪で自民と維新の一騎打ちでどちらかを選ばなければならない場合は、強く落としたい候補でない方に投票することになるでしょうし、その結果自民党候補に投票してしまう可能性は私にもあります。なお私は選挙権を得てから現在まで自民党や同党の候補者に投票したことは一度もありませんが、それは単に運が良かったに過ぎません。

 それにしても思うのは、人間集団というのは状況が悪い時にはより悪い選択肢を選びがちだということだ。

 経済政策の例でいえば、バブル期のような景気の過熱期には引き締めを行わなければならないのに、「税収は使い切らなければならない」とばかりにバラマキを行ってしまう。これは竹下登政権がやらかした愚行だった。その逆に、不況期に緊縮財政をやって「身を切る改革」とやらで日本経済を泥沼化させたのが小泉純一郎竹中平蔵だった。現在も大阪維新の会大阪府に突出したコロナ死亡率を叩き出すなど、新自由主義経済政策の害毒には計り知れないものがある。しかし大阪府民はその維新を強く支持し続けている。

 そして、人口オーナス期に入って国の舵取りが難しくなり始めた時期に、時の民主党政権を批判する意図から「決められない政治」批判が起き、多くの政党を権威主義の体質に変えてしまった。その結果、自民党はもっとも愚かなリーダーである極右の安倍晋三が国と自民党の統治を滅茶苦茶にしてしまった。民主党(当時)はそれに先立つ小沢一郎代表時代に、百花斉放百家争鳴の党風から執行部独裁の体質へと転じていた。その悪しき体質は立民結党という絶好機にも改まることはなかった。思慮の浅い支持者たちは枝野幸男を祭り上げてしまい、枝野執行部に対する批判を許さないという、かつてのオザシンやその前の「小泉信者」を思わせる態度をとってしまったのである。もちろん自民党の側には大勢のネトウヨがいる。

 そんな流れの中に独裁者・山本太郎を祭り上げる「リベラル・左派」が位置づけられる。書けば書くほど気が滅入ってくるので、気を取り直して前記山口周氏の記事の続きを引用する。

 

上役に向かって反論する際に部下が感じる心理的な抵抗の度合いには、民族間で差があるということがわかっています。オランダの心理学者ヘールト・ホフステードは、全世界で調査を行い、この「部下が上役に対して反論する時に感じる心理的な抵抗の度合い」を数値化し、それを「権力格差指標=PDI(Power Distance Index)」として定義しました。

 

「部下にとって上司は近づきがたい」存在

 

ホフステードは、もともとマーストリヒトにあるリンブルフ大学の組織人類学および国際経営論の研究者でした。1960年代初頭において、すでに国民文化および組織文化の研究の第一人者として国際的に著名だったホフステードは、IBMからの依頼を受けて1967年から1973年の6年間にわたって研究プロジェクトを実施し、その結果IBMの各国のオフィスによって管理職と部下の仕事の仕方やコミュニケーションが大きく異なること、それが知的生産に大きな影響を与えていることを発見しました。

ホフステードは多くの項目を含む複雑な質問表をつくりあげ、長い年月のうちに各国から膨大な量のデータを回収し、さまざまな角度から「文化的風土がもたらす行動の差異」についての分析を行っています。その後の彼の論考のほとんどは、この時の研究を何らかの形でベースとしています。

具体的には、ホフステードは文化的差異に着眼するに当たって、次の6つの「次元」を定義しており、今日、これらは一般に「ホフステードの6次元」として知られています。

 

  1. Power distance index(PDI)上下関係の強さ
  2. Individualism(IDV)個人主義的傾向の強さ
  3. Uncertainty avoidance index(UAI)不確実性回避傾向の強さ
  4. Masculinity(MAS)男らしさ(女らしさ)を求める傾向の強さ
  5. Long-term orientation(LTO)長期的視野傾向の強さ
  6. Indulgence versus restraint(IVR)快楽的か禁欲的か

 

ホフステードは権力格差について「それぞれの国の制度や組織において、権力の弱い成員が、権力が不平等に分布している状態を予期し、受け入れている程度」と定義しています。

 

フランス   :68

日本     :54

イタリア   :50

アメリカ   :39

カナダ    :39

旧西ドイツ  :35

イギリス   :35

 

上記は、先進7カ国の権力格差を一覧にしたものです。これによると、イギリスは権力格差の小さい国なのですが、そうした国には特徴があります。人々の間の不平等は最小限度に抑えられる傾向にあり、権限分散の傾向が強く、部下は上司が意思決定を行う前に相談されることを期待し、特権やステータスシンボルといったものはあまり見受けられません。

これに対し権力格差の大きい国では、人々のあいだに不平等があることはむしろ望ましいと考えられており、権力弱者が支配者に依存する傾向が強く、中央集権化が進みます。

以上より、権力格差の違いは職場における上司・部下の関係性のあり方に大きく作用することになります。

端的にホフステードは「権力格差の小さいアメリカで開発された目標管理制度のような仕組みは、部下と上司が対等な立場で交渉の場を持てることを前提にして開発された技法であり、そのような場を上司も部下も居心地の悪いものと感じてしまう権力格差の大きな文化圏ではほとんど機能しないだろう」と指摘しています。

なお想像に難くないことですが、やはり日本のスコアは相対的に上位に位置しています。

ホフステードは、韓国や日本などの「権力格差の高い国」では「上司に異論を唱えることを尻込みしている社員の様子がしばしば観察されており」、「部下にとって上司は近づきがたく、面と向かって反対意見を述べることは、ほとんどありえない」と同調査の中で指摘しています。

 

どのような影響を及ぼすのか

 

さて、では権力格差の大きさは具体的にどのような影響を及ぼすのでしょうか。現在の日本の状況を考えると、2つの示唆があるように思えます。

1つ目の示唆は、コンプライアンスの問題です。組織の中で、権力を持つ人によって道義的に誤った意思決定が行われようとしている時、部下である組織の人々が「それはおかしいでしょう」と声を上げられるかどうか。ホフステードの研究結果は、わが国の人々は、他の先進諸国の人々と比較して、相対的に「声を上げることに抵抗を覚える」度合いが強いことを示唆しています。

2つ目の示唆は、イノベーションに関する問題です。科学史家のトーマス・クーンは、パラダイムシフトを起こす人物の特徴として「非常に年齢が若いか、その領域に入って日が浅い人」という点を挙げています。これはつまり、組織の中において相対的に弱い立場にある人のほうが、パラダイムシフトにつながるようなアイデアを持ちやすいということを示唆しています。したがって、そのような弱い立場にある人々が、積極的に意見を表明することで、イノベーションは加速すると考えられるわけですが、日本の権力格差は相対的に高く、組織の中で弱い立場にある人は、その声を圧殺されやすい。

以上の2つを踏まえれば、組織のリーダーは、部下からの反対意見について、それが表明されれば耳を傾けるという「消極的傾聴」の態度だけでは、不十分だということが示唆されます。より積極的に、自分に対する反対意見を、むしろ探して求めるという態度が必要なのではないでしょうか。

 

出典:https://toyokeizai.net/articles/-/224981

 

 上記引用文中の冒頭にある「民族間で差がある」との文言には承服しがたい。それまでの社会に働いてきた惰性力の大きさで差があるというべきだろう。たとえばアジア人でも、アメリカで生まれ育った人の思考・行動様式はアジア諸国のそれではなくアメリカのそれだというわかりやすい例がある。

 また、各国の権力格差比較で小さい値を示している西ドイツが、調査の二十数年前までヒトラーに支配されて国を大きく誤った時期があることにも注意が必要だ。西ドイツは敗戦後に国のあり方を大きく転換させ、その結果権力格差が小さくなったものであろう。

 上記のように若干の違和感を持つ箇所はあるものの、概ね納得できる内容だ。ことに赤字ボールドの部分には強く共感した。山本太郎も理屈ではこのことがわかっているから「山本太郎を疑え」と口にするのだろうが残念ながら行動が伴っていないし、支持者や「信者」も「山本太郎さんは賢いから間違わない」と公然と口にしたり書いたりする始末だ。

 なお、『アムンセンとスコット』の解説文によればノルウェーは上記の権力指数が18だったという。北欧社会民主主義国ならではの数値だろう。一方、現在の日本は1967〜73年当時よりも権力格差はずっと大きくなっているのではなかろうか。

 何しろ、「リベラル」諸氏でさえ言いたいことを言えないどころか、積極的に陰謀論を信奉するトンデモなリーダーに身を委ねようとする珍奇な人たちが続出したり、そこまでは行かずとも思い切った政策転換を打ち出した右派の代表に異論を唱えることもできないありさまなのだから。