kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「日本が維新的なるものに向かう」ことを阻止するためにも、立民内部の新自由主義勢力、共産党の権威主義的勢力、および新選組に対する批判は不可欠だ

 月初早々の昨日、「夏休みシフト」と言っても来週末の3連休を普通に休むためだけなのだが、1つ仕事のプチピークを超えた。そのあおりで一昨日と昨日は更新を休んだが、今回はその前の日曜日に公開するはずだった記事。

 7月27日に公開した下記記事のコメント欄より。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 タカタ カズヒサ

ブログ拝見しております。この記事へのコメントではないのですが、一言言わせていただきます。貴ブログは色々と参考になる意見ですが、ある意味で仲間内の違いに注力されているような気もしております。今叩くべきは、維新馬場氏の共産党は必要ない(正確な表現ではないかもしれませんが)という発言ではないでしょうか。憲法で保障されている結社の自由を否定するかのような発言は到底許されません。小生は関東在住なので関西での維新の勢力伸長に対する、自民と共産党の連携など理解しがたい部分もありますが、なにかナチスが台頭してきたような嫌な情勢が頭によぎります。

 

 上記のタカタ カズヒサさんのコメントを受けて匿名意見さんからも下記のコメントをいただいた。

 

 匿名意見

なるほど、とても参考になるコメントです。
僕は、自由で理性的な議論がなされ、それによって物事が決められているかを基準に観察すると、もはや日本は全体主義の国になっていると思っています。
これから耐え難い人権侵害が国民を襲っていくことになるでしょうが、このままでは、誰がどんな順番で犠牲になっていくのかしか「選ぶ」ことができない状況に立ち至ると思われます。
それを回避するためには、全体主義とは逆の体質をもった野党が出現することが必要で、ブログ主さんの立民・共産執行部の体質批判は、そうした視点から読んでいます。
そういうわけで、僕は、野党批判の一連の記事はコップの中の嵐を取り上げたものではないとみていますが、コメント主さんとの見解の分かれ目はきっと、歴史的な過程のなかで日本が今どのような段階にあるかの把握の仕方の違いにあるのでしょう。
維新が政権をとるか、自民が維新化するのかは分かりませんが、僕は日本が維新的なるものへ向かっていく流れは確定的だと思っています。
そう思っているので、立憲内部の新自由主義勢力、共産党権威主義的勢力、および新選組を批判する点でブログ主さんとは意見が共通しています。
維新的なるものが新自由主義権威主義によって成り立っているとすると、上に挙げた勢力はすべて拒絶した方がいいのではないでしょうか。
共産党権威主義な勢力と新選組をめぐって評価がわかれそうですが、現代社会において権威主義的な組織原理はイノベーションを妨げることで経済発展を阻害するので、両者を選べば日本が独裁的な低開発国のような状態になるのではと危惧しています。もっとも、この部分は確たる裏付けもない印象ではありますが。
ただ、新選組陰謀論に染まりやすい独裁政党であることは確実で、この点で「権威主義的な」共産党よりも危険だとは断言できます。
政治は現実ですから、僕の選挙区では、票はまた渋々共産党に入れることになるだろうと思っています。こちらこそ、長々と申し訳ございませんでした。

 

 管見では「匿名希望」と名乗られるこの方から、弊ブログの常連コメンテーターの中でももっとも個性的、かつ大いに参考になるコメントをいただいていると感謝するところが大きい。

 まず、私は「仲間内の違いに注力している」つもりなど全くないことを申し上げておかなければならない。

 私はブログを始めて17年で、始めた頃には40代半ばだったがもう60歳を越えた。理系の技術畑の人間だが、小学生の頃から政治、のちには経済に関心を持っていた。それでもブログで政治や経済について書くようになった効用は非常に大きく、ブログをやっている間に政治や経済の問題に関する自分の考えはほぼ固まった。60代は収穫の年齢だと言った老作家がいるが、本当にその通りだと思っている。私は自らの確乎たる基準に基づいて政治や経済について書いているのであって、「仲間内での争い」などには全く関心がない。

 だから、匿名意見さんの「野党批判の一連の記事はコップの中の嵐を取り上げたものではないとみています」との評には心強い限りだ。

 匿名意見さんの「コメント主さんとの見解の分かれ目はきっと、歴史的な過程のなかで日本が今どのような段階にあるかの把握の仕方の違いにある」というご指摘も、おそらくその通りだと思う。私は現状の延長線をたどると、日本には破滅的な未来しか待ち構えていないので、維新や自民に対抗する野党にはラジカルな方向への転換が求められると確信している。だから立民前代表・枝野幸男の路線を、私が望ましいと思うのとは逆方向である右(及び新自由主義)寄りに転換した結果、私が予想というか確信していた通り、代表就任以来ずっと失敗を続けてきた泉健太は全く買わない。また、すっかり内向きになって権威主義を剥き出しにするようになった共産党をも強く批判する。かといって、元号を党名に冠する新選組のように、共産党以上に極端な権威主義の体質(ウクライナ戦争でのロシアびいきは同組の権威主義的体質の象徴だと思う)を持つ上、経済政策も「減税真理教」的で、社民主義的観点からは全く好ましくない、それどころか新自由主義的な傾向を強めるようになった政党はもってのほかだと書き続けている。

 ただ、匿名意見さんの「維新が政権をとるか、自民が維新化するのかは分かりませんが、僕は日本が維新的なるものへ向かっていく流れは確定的」とのご意見に対しては、いや、まだまだ諦めずに「維新的なるもの」に対する反撃はできるし、それをしていかなければならないと考えている。2010年代から今までを振り返ってみても、維新は2012年から13年にかけてピークを迎えたあと、安倍政権時代には勢いを落としていて、同政権末期の2019年から反転構成に出て今に至っている。これを思い返しても、一度は(安倍晋三一派に食われたためかもしれないが)衰勢に追い込まれた維新の勢いを再び削ぐことは決して不可能ではないと思う。特に、維新の政治家たちの質の低さを見ていたらよけいにその意を強くする。

 匿名意見さんのコメントに戻ると「立憲内部の新自由主義勢力、共産党権威主義的勢力、および新選組を批判する点でブログ主さんとは意見が共通しています」、「維新的なるものが新自由主義権威主義によって成り立っているとすると、上に挙げた勢力はすべて拒絶した方がいい」とのことで、これにも大いに意を強くする。

 権威主義についていうと、1960〜70年代に大ベストセラーとなった中根千枝(1926-2021)の『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書,1967)を、発刊56年後にして初めて読んだ。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

 現在の目から見ると、たとえば非正規労働者層など、日本社会が「タテ社会」に当てはまらなくなっている部分がかなりあると思われるが、政界、特に自民党は今も変わらずまぎれもない「タテ社会」の組織だと思った。

 権威主義に関してこの本で注目したのは、古い版とレイアウトが同じかどうかは知らないが、2022年3月29日発行第134刷の143〜145頁に書かれた「権威主義と平等主義の力関係」の章だ。

 著者は、西欧と日本における組織のリーダーと部下との力関係について、下記のように書いている。なお、引用に当たっては文章の前後を入れ替えるなどした。

 

 近代西欧的ディレクター・リーダーシップにおいては、何よりも、リーダーと部下の間に約束があり、そのルールに従って一定のミーティング・ポイント(接点)が決まっているから、どちら側も一定以上の力を行使することができない、と同時に、一定の権力行使が許されている。(前掲書144-145頁)

 

 (日本では=引用者註)この両者のミーティング・ポイントとして、何らのルールが存在していないため、相対的な条件において、どちらかが優勢になるわけである。特に現代(1967年当時=引用者註)の日本のように素朴な民主主義(平等主義)的信念が社会に横行していると、一般的傾向として下が当然強くなるから、リーダーはますます弱くなる。(前掲書144頁)

 

 著者は上記の「日本的平等主義」を散々嫌ったものと思われるが、みんなでお手手を繋いで一緒にゴールインしましょう、などという教育が実際に行われていたのは事実だ。それが「誰もが大谷翔平になれる」かのごとき馬鹿げた幻想にもとづいていたことはいうまでもない。現実には、たとえ村上宗隆をもってしても大谷にはなれない。私のような凡人は大谷よりも石川雅規を強く応援するが、私が石川には決してなれないこともいうまでもない。そういえば、前の記事にsuterakusoさんからコメントをいただいたが、山野太一のプロ入り初勝利は良かった。投げ合った相手が読売軍の元エース・菅野智之*1だっただけになおさらだ。

 脱線はこのくらいにして話を戻すと、中根千枝が1967年に指摘した「ますます弱くなったリーダー」が批判されて、「決められる政治」が喧伝されたのは故安倍晋三が総理大臣に返り咲く少し前くらいのことだった。その結果日本の政治に戻ってきたのは戦前と同じ「権威主義」だった。以下再び『タテ社会の人間関係』から引用するが、本書では最初に引用した「西欧的ディレクター・リーダーシップ」の段落の直後に下記の段落が続く。

 

 日本的な表現をとれば、この力関係において、上が強くなると「権威主義」であり、下が強くなると「民主主義」である。前者は戦前に多く、後者は戦後に多い。いずれも両者(上・下)の約束による接点が設定されていない、という点で、いずれの仕方にも弊害が相当ある。(前掲書145頁)

 

 著者は「後者は戦後に多い」と書いているが、それは本書が出版された1960年代やそれに続く1970年代には当てはまっても、21世紀の日本には当てはまらない。特に政界においては、タテ社会の組織の象徴・自民党で幹事長にのし上がった経歴を持つ小沢一郎が推進した1990年代の「政治改革」の影響が徐々に現れた。自民党では小泉純一郎が楚総理・総裁になって以来、特に安倍政権時代にひどい権威主義政党になった。民主党系は、1990年代後半の旧民主党(1996年結党)当時はもちろん、1998年結党の新民主党時代の初期の2002年頃までは「百花斉放・百家争鳴」の気風があった。それを変えたのが2003年に合流した旧自由党小沢一郎だったと私は考えている。小沢が代表時代に党代表選をやらないように党内に圧力をかけ、結局無投票で3選されたのは2008年だったが、その頃にはすっかり権威主義的かつ「タテ社会」的な政党になっていたように思われる。

 その弊害は、2017年に結党されて当初は高い政党支持率を誇った立憲民主党にも引き継がれた。枝野幸男を「えだのん」と呼んで信奉する「信者」が少なからずいたが、この手の「信者」がいること自体、「ウチ、ソト」意識の強い「タテ社会」の組織になっていることの表れだったかもしれない。それを示すのが、現代表の泉健太がいくら「やらかし」ても組織防衛志向を崩そうとしない同党支持者のあり方だろう。立民の政党支持率は今年1月からずっと下落傾向にある。いまや「コア」の支持層くらいしか残っていないかもしれない。

 泉健太について、彼は立民党内で巧みな権力獲得工作を行なって現在の地位を得るに至ったとはこれまでにも何度も指摘してきたが、それは例を挙げると2021年の代表選では大長老の「元剛腕」小沢一郎を取り込み、2022年の参院選に惨敗してピンチに立たされると今後は幹事長にやはり長老の岡田克也を任命するなどの「爺殺し」の手法などをもちいた戦術であって、これは企業などの「タテ社会」で出世する人の共通のパターンだ。また芳野友子が君臨する連合もタテ社会の守護神のような組織だが、こんな立民のあり方で「タテ社会」から疎外されている非正規労働者などの支持を得ようというのがそもそも無理なことだ。彼らがたとえば新選組などに流れるのは止むを得ない。

 しかしその立民よりももっと権威主義的傾向がはなはだしいのが共産党だ。そもそも志位和夫共産党内で出世したのは、1986年頃に分派(伊里一智)狩りをして宮本顕治のお気に召したためだとも言われている。

 そしてその共産よりもさらに権威主義的なのが新選組だと私は考えている。

 

 共産党新選組について、匿名意見さんは下記のように書いた。

 

共産党権威主義な勢力と新選組をめぐって評価がわかれそうですが、現代社会において権威主義的な組織原理はイノベーションを妨げることで経済発展を阻害するので、両者を選べば日本が独裁的な低開発国のような状態になるのではと危惧しています。もっとも、この部分は確たる裏付けもない印象ではありますが。

 

ただ、新選組陰謀論に染まりやすい独裁政党であることは確実で、この点で「権威主義的な」共産党よりも危険だとは断言できます。

 

 「権威主義的な組織原理はイノベーションを妨げることで経済発展を阻害する」というご指摘には、本職が技術系の人間である私にとっては特に強く共感できる。

 そもそも私は組織内でしか通用しない日本の組織のあり方が大嫌いだった。だから、少しでも普遍的なフィールドで通用する仕事を求めてきた。

 そんな私にとって、組織防衛にばかりかまける立民や共産の支持層、それにも増して徹底的に排他的な新選組の「信者」たちは我慢ならないのである。

 時間になったので今日はここまで。

*1:現在の読売のエースは文句なく戸郷翔征だろうと私は思うが、なぜか日本のスポーツマスコミは未だに菅野を「エース」と呼びたがる。私にはそれが気に食わない。