kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

今後の日本の政治に求められるのは左派的な政策と組織内権力格差の小さい政党だ/昨年読書ブログに公開した本多勝一『アムンセンとスコット』の紹介記事中に引用文の欠落があった

 今回はたいへんな困難が待ち受けているに違いない現在の日本において、弊ブログの意見を簡単に書いておこうと思って調べていたところ、昨年6月6日に読書・音楽ブログに公開した下記記事にそれが書かれていることに気づいた。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 それと同時に、上記記事中の引用文に落丁というか、引用文の途中をすっ飛ばしてしまって文章が意味不明になっている箇所があったことを(今頃になって)発見したので、遅ればせながら訂正箇所を以下に示しておく。下記引用文中の赤字ボールドの部分が欠落していた。

 

(前略)解説文での山口周の論評は、明らかに本多をも凌ぐ痛烈さである。

 

 山口はさらに、過去50年分、56か国のエヴェレスト登山隊における死亡者の発生率と権力指数の相関に関する南カリフォルニア大学の組織心理学研究者、エリック・アニシックの研究によると、権力格差の大きい文化圏の登山隊の方が、他方の登山隊と比較して死者が出る確率が著しく高いことが明らかになったと書いている(本書336頁)。こちらには下記リンクが示されている。

https://www.pnas.org/content/112/5/1338

 

 なお単独登山の場合は死亡率と権力格差には何の相関もないとのこと。

 

 山口の下記の文章は、その前半では日本の某政党がどうしても連想されてならない一方、後半では1950〜70年代に日本経済が高度成長を遂げた理由がよく説明できると思った。

 

 権力格差の大きいチームでは、地位の低いメンバーが発言を封じられることで、彼らの発見、あるいは懸念、あるいはアイデアが共有されず、結果的に意思決定の品質が悪化するのです。これは、想定外のことが次々に起き、リーダーの認知能力・知識・経験が限界に晒されるような環境下では致命的な状況といえます。

 

 一方で、アニシックの研究で非常に興味深いのは、予想外のことが起きないような安定的な状況においては、権力格差の大きさは、むしろチームのパフォーマンスを高めることがわかっています。そのような状況では、リーダーの意思決定が上意下達され、一糸乱れず実施される組織の方がパフォーマンスが高いのです。これはつまり、リーダーの認知能力や知識・経験の範囲内で対処が可能な状況においては、権力格差の大きさはチームのパフォーマンスにプラスの影響を与えるということです。

 

本多勝一『アムンセンとスコット』(朝日文庫,2021)336-337頁)

 

 上記に続く部分が、山口の解説文の核心部といえるかもしれない。以下に引用する。

 

 よく「理想的なリーダーシップ」といったことが語られますが、そんなものは存在しません。リーダーシップというのは極めて文脈依存的なもので、どのような状況・環境においても有効に機能するリーダーシップなどというものはあり得ないのです。

 

 アムンセンとスコットの対比に関して言えば、アムンセンによる、権力格差の小さいリーダーシップは、南極点到達という、極めて不確実性の高い営みにおいては有効に機能し、一方のスコットによる、権力格差の大きいリーダーシップは、有効に機能しなかったわけですが、だからといってここから「どのような状況においても権力格差の小さいリーダーシップが有効なのだ」と断ずるのは暴論でしかありません。

 

 この示唆を、現在を生きる私たちに当てはめてみればどのようになるでしょうか? 当時の南極は、前人未到の大地であり、そこがどのような場所であるかはよくわかっていませんでした。それはまさに、現在の我々にとっての「これからやってくるアフターコロナの世界」のような局面です。このような不確実性・不透明性の高い環境において有効なリーダーシップとはどのようなものか? について考える題材を本書は与えてくれると思います。

 

本多勝一『アムンセンとスコット』(朝日文庫,2021)337-338頁)

 

URL: https://kj-books-and-music.hatenablog.com/entry/2022/06/06/083926

 

 上記赤字ボールドの部分が欠落していたために、原文とは正反対の意味の文章になっていた。今日ようやく気づいて追記した次第。

 上記の文章の続きは下記。

 

 特に示唆的なのは上記引用文中の最後の段落だ。

 

 日本は既に「人口オーナス期」(人口減少による経済や社会への不利益が続く時期)に入っているが、これに対する対処法の知見などほとんどない(経験がないのだから当たり前だ)。その不確実性に加えて「これからやってくるアフターコロナの世界」の不確実性がダブルパンチで襲いかかってくる。アムンセンやスコットが直面した南極到達にも比較されるべき困難な状況といえるだろう。こういう時期に何よりも求められるのは知恵であり、多くの人が持っている知恵を可能な限り有効に吸い上げてそれらを総合し、機能させることが求められる。

 

 ところが日本の政治状況について言えば、10年くらい前の民主党政権時代に「決められる政治」なるスローガンが喧伝されて、それに先立つ1990年代に行われた「政治改革」の「成果」と相俟って、政党の執行が独裁し、下部は執行部に付き従うだけという傾向が強まった。それ以前から公明党共産党はそういう性質を持つ政党だったが、自民党にせよ民主党にせよ上記の流れに従って権威主義的な政党に変貌していった。

 

 それらの「既成政党」に対抗する形で新たに現れた日本維新の党や維新の党や×××新選組は、最初から公明党共産党をも上回る執行部、あるいは新選組の場合は党首単独が独裁する政党の性格を持っている。維新や新選組においては「権力格差」は特に大きいといえるだろう。

 

 しかし、上記山口周の議論を維新や新選組に当てはめると、これらの政党が「アフターコロナの世界」に対処できるとはおよそ思われない。

 

 それどころか、両党は本書刊行後にロシアがウクライナを侵攻して起きたウクライナ戦争で早くも馬脚を現した。維新OBの橋下徹新選組代表の山本太郎がともに事実上侵略者・プーチンの肩を持ったのである。これは、橋下や山本の体質と、世界でも稀に見る残忍な権力主義者であるプーチンのそれとの親和性が高いためだろうと私は考えている。

 

 プーチンのロシアにせよ橋下の影響力が強く残る維新にせよ山本が独裁する新選組にせよ、集合知が有効に働かないことは明らかだ。特に悲惨なのは新選組であって、山本が持つ陰謀論に惹かれやすい弱点を組織が修正することができず、逆に国政選挙の候補者たちの多くが陰謀論者であることなど、目を覆いたくなるぶざまさだ。

 

 山口は「アフターコロナの世界」と書いているが、山本太郎の暴走が始まったきっかけも新型コロナ感染症だった。コロナによって得意とする街宣を封じられた山本が打開策として選んだのは2020年の東京都知事選への強行出馬だったのである。この時、山本は宇都宮健児の出馬を取り下げてもらおうと工作したが失敗した。共産党立憲民主党(立民)は宇都宮を支持したため、山本が「野党共闘」に罅を入れた形になった。

 

 現在、一部の新選組シンパが「野党共闘を支持していた票が参院選で行き場を失うだろう」などと言っているが、昨年の衆院選での「野党共闘」の敗北で本格化した「野党共闘の崩壊」の最初のきっかけを作ったのは山本だったと私はみている。

 

 山本は2021年の衆院選でも東京8区からの出馬を強行しようとして失敗した。この時はこの山本の暴挙によってかえって同区で「野党共闘」がまとまる結果となり、この選挙区から立候補した立民の候補者が、自民党石原伸晃に比例復活も許さない圧勝をもたらしたが、選挙全体としては「野党共闘」は敗れた。山本は比例東京ブロックに回って当選した。

 

 ところが山本はきたる7月の参院選に出馬するために、自ら獲得した議席を投げ出した(衆議院議員を辞職)。ここまでくるともう滅茶苦茶だ。こんな人が率いる独裁政党が「アフターコロナの世界」に対処できようはずもない。

 

 山本が独裁する新選組は、今年の参院選でか、あるいは次の国政選挙でかはわからないが、いずれ行き詰まって破綻するだろうが、橋下徹大阪府知事選初当選から既に14年が経過し、大阪を中心とした関西ではすっかり定着した維新はそう簡単には引きずり下ろせない。それどころか今年の参院選で立民を上回る議席を獲得する可能性や、その後の衆院選野党第一党にのし上がる可能性さえある。しかし維新も新選組に負けず劣らず権力指数の高い政党だといえる。この政党もまた「アフターコロナの世界」に対処できようはずがない。

 

 政権政党自民党でも極右の元首相・安倍晋三が長く政権を担った2012〜20年の間に、すっかり独裁政党になってしまったし、野党第一党の立民も、せっかく2017年に「希望の党騒動」を奇貨として発足し、ボトムアップや「草の根」を標榜したにも関わらず、結局前代表・枝野幸男の個人商店と化したばかりか、衆院選敗北で枝野にとって代わって代表になった泉健太がドラスティックな政策の変更を衆院選の公約として打ち出しても、党員や支持者からろくすっぽ異議も上がらない惨状を呈している。

 

 また発足100年を迎えた共産党は、多くの論者から「民主集中制」の限界を指摘されている。先月発売された中公新書『日本共産党』の著者・中北浩爾も宮本顯治の路線が限界にきているとみているようだ。「民主集中制」の限界も、山口周が指摘する「権力格差」と関連づけて論じることができるのではないか。少なくとも民主集中制が「権力格差の小さい」制度であるとは私にはとても思われない。

 

 『アムンセンとスコット』の解説文について、「せっかくのドラマチックな物語をビジネスにおける教訓に転化してしまっていて個人的にはちょっと鼻白んだ」との感想を書いた人も見かけたが*1、私はそのような感想は持たなかった。山口周の解説文は、単に「ビジネス」にとどまらず、今後のこの国の舵取りにも適用できるものであり、その困難さは南極点への初到達と比較できるくらい困難極まりないものだと思うからである。

 

URL: https://kj-books-and-music.hatenablog.com/entry/2022/06/06/083926

 

 上記の文章は、ブログ記事で取り上げた本多勝一の『アムンセンとスコット』(朝日文庫2021)の内容から大きく脱線しているが、今でも意見は変わらない。

 しかし上記記事を公開してからの1年弱、日本の政治で起きたのは、まず参院選での維新躍進と立民・共産の敗北、次いでその結果を受けての立民代表・泉健太の維新すり寄り路線とそれに続く立民の一時的な政党支持率回復と維新の同じく一時的な政党支持率下落であり、後者には立民支持層のうち泉執行部を強く応援する人たちがぬか喜びに浸った。泉は図に乗ったか、年初に自らの乃木神社への初詣を大々的にアピールして右翼層に媚びた。そして共産は松竹伸幸氏の除名を敢行する一方で、各地の共産党支部で噴出したパワハラには見て見ぬふりをした。それもそのはず、昨年末には執行部(小池晃)自らがパワハラ騒動を引き起こしたのだった。

 こうして共産は自ら党員を疎外する体質を露呈したが、そのさらにあと、統一地方選の時期まで立民は「党内の権力格差が極めて大きい上、自民党よりも右寄りで新自由主義的傾向の強い維新」にすり寄り続けたが、統一地方選の時期になって維新に共闘を足蹴にされ、統一地方選では維新の躍進に対して立民は2020年に旧民民の相当部分と合同した分に対応するくらいしか議席を伸ばせなかった(事実上の横ばいといえる)。しかも統一地方選と並行して行われた衆参5補選では、維新の1戦1勝に対して立民は4戦全敗した。先週末に発売された『週刊文春』を昨夕立ち読みしたが、泉と岡田克也は補選全敗を受けて周囲に辞意を漏らしたという。泉は心は折れてしまったとも書かれていた。結果に責任を負うべき政治家として辞任は当然だと思うが、あろうことか党員や支持者たちの多くは泉の続投を望み、共産との共闘を阻止したい連合会長の芳野友子も泉が次期衆院選で150議席を獲れなくても辞める必要はないなどとして泉の公約の翻意を働きかけている。

 以上、私から見れば最悪の展開だった。

 改めて書くが、今後の日本には南極点から基地に全員を無事帰還させるアムンセンとスコットの競争にも比肩する困難が待ち受けていると私は考えている。

 そのためには必要条件が2つある。

 まずこの国に住む誰をも取りこぼさない左派的政策だ。経済の拡大期にあっては競争原理重視の政策が有効に機能する場合もあるだろうが、今後数十年間の日本はそういう社会ではない。今後の日本で確実に予想されるのは、社会と経済の縮小に伴う「椅子取りゲーム」式の熾烈なサバイバル競争社会の到来だが、こういう社会では既得権益を有する富裕層ほど生き残りが容易で、下の階級に行けば行くほど生き残りが困難になるので、手厚いセーフティネットの構築が欠かせない。だから今後の日本においては新自由主義政策などとってはならないのである。また、これからの日本はもう大国ではなくなるのだから、大幅な軍事費拡大などを行ってはならない。

 しかしそれだけではダメで、政権政党の組織内の権力格差が小さな政党が強く求められる。権力格差が大きければ党員でさえ党から疎外される。党員を疎外するような政党が政権を握ったら、政権政党の意に沿わない人々が政治から疎外されることは自明だ。この観点から求められるのは、小沢一郎が加入する前の民主党のような百家争鳴、百花斉放の気風だろう。当時の民主党新自由主義色の強い政策には大きな問題があったが、政党内の風通しは現在とは比較にならないほど良かった。

 政策が良いことにかけては昔も今も共産党が一番だろうと思うが、同党はやはり民主集中制、というよりその中心に据えられた分派禁止条項を廃止する必要がある。あれは共産党が非合法だったために組織防衛上必要不可欠だった制度に過ぎない。「科学的社会主義のための必然の要請」だとは私には全く思えない。共産党は党内権力格差の小さい政党に生まれ変わらなければ今後は立ち行かない。今年の共産党内の騒動で思ったことは、分派の禁止が組織防衛、さらにいえば執行部の自己防衛の道具あるいは口実としてしか機能していないことだ。分派禁止の規定を伴わない民主集中制であれば、それは十分にリーズナブルな制度だと思う。諸悪の根源は「分派禁止」の条項だ。

 何より大事なことは、人口オーナス期というハンデをカバーするには、一人でも多くの人の知恵を結集する必要があるということだ。これから迎えるのは軽々しく「排除」をやれるような生易しい時代ではない。

 とりあえずは以上。一昨年の衆院選以降現在までの間に、立民も共産も変わるべきところを変われなかった失敗は大きい。両党とも今後の選挙でダメージを受けることは必定と思うが、せめてそのあとには変わってもらいたいものだ。